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ミニふるめた


ここは軽いお気楽なフルメタのミニ話

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テッサのミスリル

作:アリマサ
mini.058



全ての決着が着いて、ほんの数日後。

ある山の一角で、屈強な兵士たちが集まっていた。
しかしそれは訓練でも作戦でもなかった。
「うおーい。肉足りねえぞ。こっちにもっと追加してくれー」
誰かが叫び、下士官の一人が肉の入った包みを持って声のほうに駆け寄る。
それを鉄網の上に並べ、肉はジュージューと焼けていく。

一同は、元ミスリルの兵士たちだった。
決着がついたあと、ミスリルは解散した。
ここに集まっていたのは、ただのキャンプであり、民間用の平凡なテントがまばらにたてられており、川原の近くに設置したバーベキューで楽しんでいるだけだった。
理由はない。ただ、集まろうという声が出て、集まっただけだ。
そういう気軽さなので、まだ全員揃っていない。開始時間は特に決まっているわけではないので、まだ後からやってくることになっている。

すでに来ているのは、テッサ、マデューカス、クルーゾー。そしてかつての整備士や通信士、前線を務めた兵士たちである。

「はあ……」
そのバーベキューの輪から、テッサは一人外れ、横倒しになっていた木を椅子代わりにため息をついていた。
「どうされました、大佐殿」
マデューカスが、肉とネギを交互に刺した串を手に、歩み寄る。
「いえ、なんでもないんです」
テッサはそう答えるが、表情はそう語っていない。
しかし何も聞かなくとも、マデューカスにはテッサの心情が読み取れた。

ミスリルは解散した。
もう彼女は武器を持つ生活から解放される。それは喜ばしいことであり、また彼女の望んでいたことでもあった。
だが、彼女にとってミスリルは部隊だけでなく、家族としての居場所だった。
それを失った喪失感を、どことなく感じているのだろう。
マデューカスは、掛けるべき言葉が見つからなかった。

しばらくすると、山のふもとからまた一人誰かが合流してきた。
山登りの基本スタイルで固めた金髪碧眼のクルツだった。
「あ、クルツだ」
「なんだ、クルツか」
「チッ……」
クルツの顔を見るなり、悪態をつく兵士ら。それを受けて、クルツは眉をひそめる。
「なんだ、テメエら。まだオレに文句あるってのか。あぁ?」
ミスリルの最大の戦い。そのときに死んだはずのクルツが生きていて、ひょっこり戻ってきた。
それは元ミスリルの兵士たちの間では、今更なあ……という微妙な空気が浸透したままだった。
「いい加減しつこいってんだよ。そりゃあ、あんだけカッコつけた手前、なんか出にくいモンがあるよ。でもよ、生きてたんだからそれでいいだろ。ったく、少しぐれえ生きてたってことを喜んでくれっての」
「それは無理というものだ、ウェーバー」
黒人傭兵、クルーゾーがそっとたしなめる。
「なんでだよ?」
「これを見ろ」
テントの中に設置されていたプロジェクター。本来は作戦の打ち合わせ用のそれに、ある一幕が映し出された。
トゥアハー・デ・ダナンの一角。海の上に出て、穏やかな波に揺られつつ、むき出しになったデッキの上で、一つの黒い箱を中心に、ミスリルの面々が黙祷していた。
黒い箱は、クルツの棺桶代わり。それを囲むようにして、ミスリルたちは悲痛な表情を落とし、胸に手を当てている。
誰かの喚き声が響く。それを受けて、嗚咽がところどころで漏れる。
やがて黒い箱は、白い布に包まれて、優しく海の上に落とされた。みんなに見守られていく中、それは少しずつ海の中に沈み、消えていった。
「…………」
「わかったか。お前が亡くなったことで、忙しい中でどうにか時間を作り、お前を海の中に弔ったのだ」
そこに、マデューカスが付け加える。
「これまでの功績も考え、大幅に予算を削って、盛大にな。今の映像の前にも、何時間もかけて告別式を行っていたのだ。それなのに……貴様は」
「お前というヤツは……」
「まったく……」
やれやれ、と首を振る。他の隊員たちも、俺たちゃなんのために……とため息をついていた。

プチッ

「てめェら……」
クルツは白いタオルを取り出し、それを細く巻きだした。
みんなが、その行動になんだ? と注目する。
クルツは細く巻いたそのタオルを、頭に巻く。そして額の部分のところだけ、タオルを三角形にはみ出させた。そして、恨みがましい声で告げた。
「そんなにオレを死なせたいってんなら、今からオレは幽霊になってやる!」
びしぃっ、と日本の幽霊よろしく、両手を垂らしてみせた。
その妙な気合の入った幽霊の構えに、みんなは一瞬、言葉を失った。そして……
「ぶうぇわははは!!」
豪快な笑い声が響いた。

「なっ、なんだてめェら。幽霊だぞ! 呪ってやるかんな!」
「ちょっ、やめっ、こっち見んな! 笑い死ぬ!」
「う〜ら〜め〜し〜や〜!」
「あひゃひゃひゃひゃ!」
笑い転げる兵士たちに、ますますいきり立つクルツ。賑やかな声が響いて、近くにいたテッサが顔を上げた。
「クルツさんはどうしたんですか?」
「どうやらブチ切れたようですな。周りの声に踊らされて、自称幽霊として振舞っているようです」
マデューカスの言葉に、テッサは首をかしげた。
「幽霊、ですか。わたし、そういうの見たことなかったんですよ」
テッサは古木から立ち上がると、クルツの元に歩み寄る。
「大佐殿……?」
一同が、笑いを止める。さっきまで元気のなかったテッサが、騒ぎの中に割り込んできたので、なんとなく注目する。
テッサはそれに構わず、三角巾をつけたクルツの顔を正面からじいっと見た。
「これが、幽霊ですか。記述では知ってましたが、実物を見るのはこれが初めてです。でも変ですね。幽霊って、怖いものだと聞いてましたけど、そうでもないですね……?」
不思議そうに、首をかしげる。その行動に、演技さは感じられなかった。
「おい、まさか大佐殿は本気で言ってるのか……?」
「天然……? いや、しかし……」
どよどよと兵士たちがざわめく。一番、反応に困っているのは当のクルツだった。
え? コレどうすりゃいいの? という顔で戸惑っている。

そのときだった。どこかしら、あたり一面にごおっと風が吹き荒れた。
その風はすぐにおさまり、山のふもとから二人の影が現れる。
「お久しぶりー、みんなぁ」
「すまない、遅れた」
マオと宗介だった。

「……ナニしてんの、あんたら?」
バーベキューをよそに、クルツが妙な体勢でテッサと向かい合っており、それを一同が見守っているという構図に、マオは眉をひそめた。
「お久しぶりです、メリッサ」
テッサだけが、二人のほうを向いて、にこりと笑みを浮かべる。
だがその笑みの奥にあるものを、マオはすぐに見抜いた。
「……相変わらずヘコんでんのねー。ま、いいわ。お肉どこよ?」
マオはぽんとテッサの頭に手を置いて、腹が減ってたのかすぐにバーベキューの肉を掴む。

「どうされたのでしょうか、これは」
「お久しぶりです、相良さん。実はわたし、初めて幽霊というものをみたんです」
「幽霊、ですか」
「相良さんは見たことあるんですか?」
「以前、千鳥と廃病院に行きましたが、そこで幽霊を見ることはありませんでした」
「そうですか。そんな相良さんに朗報です。初公開っ、これが幽霊ですっ」
テレビの効果音よろしく口でジャーン、とクルツを紹介した。
「あ、その……。どうも初めまして、幽霊です」
「……クルツ?」
そのクルツは決まり悪そうに、それでも幽霊のように手を垂らして前に突き出した。
「う、う〜ら〜め〜し〜や〜」
その仕草に、傍にいたマオがぶっとかじってた肉を噴出し、周りの兵士たちが声を押し殺して笑っていた。
だが宗介は首をかしげただけだった。
「裏メシ屋? 今はバーベキューではないのか?」
「うん、お前には伝わらねえと思ったよ」
かくして、これが久しぶりの宗介とクルツの再会となったのだった。


「さっきからなんだというんだ。とりあえず、お前はクルツなんだろう?」
「まあ、オレなんだけどな。とりあえず、幽霊でもあるわけよ。ほら、幽霊のシンボルである三角巾を巻いてるだろ?」
「三角巾……? それと幽霊と何の関係が……?」
「お前は本当に日本人かよ。まあいいや。とにかく幽霊ってことで」
「まったく分からん。さっきから幽霊と言ってるが、それは怪談というやつのことか?」
「あれ、変なところは知ってんだな」
「前に千鳥とその友人たちに聞かされたのだが、要領を得ん。たこやきが箱の裏についてたからなんだというのか、未だに謎のままだ」
「オレもお前が何言ってるのか分かんねえよ。でも怪談なら、結構定番モノが多いよな。のっぺらぼうって知ってるか?」
「いや」
「道を歩いていた男が、道端でうずくまってる人に声をかけてみるんだけどよ。そいつが振り向いたら、目も鼻も口もない、何も無い顔だったってヤツよ」
「それは……怖いな」
意外な返答に、逆にクルツがびっくりした。
「えっ、マジ? 今の話だけで、お前も怖いって思ったのか?」
「ああ、恐ろしいな。そいつは硫酸弾でも食らったのだろうな。あるいは化学兵器か。被弾した顔面は焼け爛れ、目玉は溶け落ち、鼻がもぎ取れ、口が潰れたのだろう。顔の凹凸が無くなるほどの威力では、言葉では表せないほどの苦痛を強いられただろう。しかも即死ではないところに戦慄を覚える」
「…………」
「恐ろしい……」
「……うん、本当の意味で怖えよ! 想像しちまったじゃねえか。うぅ、鳥肌が……」
「幽霊なのにか?」
「うるせえ。だああ、これ以上続けてるとくだらねえ漫才になっちまう」
「漫才? クルツ、漫才とは……」
「黙ってろ。オレはお前の父ちゃんでも先公でもねえ。とにかく、幽霊ってことでオレに協力してくれ。頼むから」
「よく分からんが、了解した。クルツを本当の幽霊にすればいいんだな?」
宗介は懐から取り出したそれを、クルツのこめかみに当てる。
「違うって! またそんないつものパターン持ち出さないでくれよ、余計ややこしくなる。……って」
宗介がクルツのこめかみに当てたのは、拳銃ではなく飴だった。棒の先に飴玉がついたタイプで、棒のほうを押し当てていた。
「なんで飴玉?」
「拳銃はもう持たないことにしているのでな。大丈夫だ、勢いをつけて刺せば、脳にまで食い込めるだろう」
「大丈夫じゃねえって。本当にお陀仏したくねぇよ! そうじゃなくって、幽霊に見えてるフリしろってことだよ」
「…………」
「おい分かったのか? 返事しろよ。また変に勘違いしてんじゃねえだろうな?」
「…………」
「ん? おい、ソースケ?」
「どうしたんです、相良さん」
さっきまで、小声で会話していたからだろう、状況を飲み込めないテッサが声をかけてきた。
そこで宗介は、クルツとは視線を合わせず、テッサにぼそりと言った。
「残念ながら、自分には視認できません。どうも霊感というものが自分には備わっていないようです」
「え……目の前の幽霊が見えないんですか?」
「はい。以前に、千鳥に教えられました。幽霊とは普通は目に見えないものだと。そして自分にはその姿を見ることができません」
「そ、そうなのですか。わたしにはこれでもかっていうくらい見えてるんですけど。はあ、これが霊感のある人とない人の違いなんですね……」
宗介の見事な誤魔化しに、クルツだけでなく、周りも驚いていた。意外なほどまともな対応に、よほど千鳥に教え込まれたのだなと感慨深くなった。
「やるじゃねえかよ、ソースケ」
嬉しそうにクルツが宗介を小突く。だが宗介はそれをスルーして、バーベキューの方へと離れていった。
「…………」
そのつれなさに、なんだか、妙な空しさを感じる。
「ちぇっ、なんか変な気分だぜ」
そのとき、ドン、と誰かに突き飛ばされ、クルツは前のめりに膝をつく。
「ってえな、誰だよ」
兵士の一人だった。だが彼はクルツに詫びも入れず、きょろきょろと見回す仕草をした。
「……気のせいか。なんかぶつかったような。でも誰もいねえしな」
うっすらと口の端に笑みを浮かべて、そうとぼけてみせた。
「ってめえ……」
立ち上がろうとしたクルツに、誰かが足を引っ掛けて、またも無様に転がってしまう。
「あっるえぇ〜。コサックダンスの練習してたらなんか当たったぁ〜。でもなにもねえしなあ」
「あのな、てめえら。調子こいてんじゃねえぞ。クルツさまをナメてたらどうなるか分かってんだろうな」
だが、そんな怒りの言葉にも、誰もがつーんとあさっての方向を見やって無視を決め込んでいた。
「ちょ、話聞けって」
「…………」
「おい、無視すんなよ。なんだよこれ、イジメかよ……」
兵士のいつもの悪ノリだが、クルツの声が小さくなっていく。

「ったく。自分でバカな事言い出して自分を傷つけてちゃ世話ないっての」
そろそろ見かねたマオが、この場を止めようとクルツに近づく。
だが、クルツはいきなりそんなマオにがばっと抱きついた。
「うわっ、ちょ、いきなりなにしてんのよっ」
「あっれえ? オレのこと見えねえんだろ? なあんでそんな反応するのかなぁ〜?」
「あ、アンタねえ……」
今度はクルツが幽霊を利用して、悪ふざけを始めた。
マオだけでなく、他の兵士にもちょっかいを出していく。幽霊パーンチと叫んだり、女性にセクハラかましたりと、またもぎゃーぎゃーと騒がしくなっていた。

結局その暴走したクルツを止めるのは、クルーゾーの声だった。
「いい加減にしろ、クルツ」
「けっ。やっぱりオレが見えてんじゃねえかよ」
「当たり前だ。いつまでこんなバカなことをやらかしてるつもりだ?」
「へん。相変わらずエラそうにしやがってよ。だがよ、今日ばかりはそうもいかねえぜ」
「なに?」
「今のオレは幽霊なんだぜ。つまり、まだ死んだままってわけだ。そんなとき、兵士ってのには二階級特進ってのがあるだろ。オレの立場は更に上がってんだよ」
「なにを言うかと思えば……そんなのは、貴様が生存してると判明したときにすでに解除されてるはずだろう」
ところが、そんなクルーゾーの言葉にテッサが異を唱えた。
「いえ、実はあの頃はどたばたしてましたから、まだ訂正してないんです。つまり今のクルツさんは書類上では死んだままで、二階級特進したままなんです」
「え? ちょ、オレマジで死人だったの?」
別方向からの事実に、ショックを受ける。普通はそこで落ち込んで終わるところだが、それでも悪ノリ気分が勝ったらしく、平然と受け流した。
「まあいいや。それより、どうだ。オレは上の立場のままなんだぜ。分かったら、クルーゾー殿は以後、オレに敬語をつけるように」
「……本気で言ってるのか」
「あーあ、やだやだ。頭まで筋肉でできてる人は。さっき、敬語をつけろと言ったばかりじゃん。口の利き方には気をつけたまえよ、まったく」
「……はっきりと言っておくぞ、ウェーバー。たとえ本当にお前が二階級特進してたとしても、それでも立場は俺より下だ」
「……え?」
クルツは、きょとんとしてテッサをみやった。だがテッサは、クルーゾーの言葉に、こくんとうなずいて同意した。
「え、マジ? オレって死んでもコイツより下なの?」
元々、それだけの階級の差があったことを、クルツは初めて知ったらしい。
「ひでえ……。マジで?」
「そもそも、お前が上官に対して態度が不真面目すぎるんだ。通常なら、お前が俺に敬語をつけるのが常識なのだぞ」
「うっ」
苦手な話題に入ったことで、クルツも強く出れない。そんな話題に、マデューカスまでもが割り込んだ。
「愚か者。自分の立場くらいしっかり把握しておけ。いいか、お前はその程度だ」
マデューカスの言葉で、ついにクルツは崩れた。
「ひでえ。ひでえよ。うおおあぁぁっ、ナニそれぇぇっ」
「うわはははは!」
頭を抱えてうなだれるクルツの様子で、またも爆笑が巻き起こった。


「やれやれ。こいつらはどこにいたって、騒がしいですな」
マデューカスの言葉に、テッサがくすりと笑った。今度は表面でなく、心の底から。
「ええ、そうですね。本当に、騒がしいですよね。……あの人たちは、どこにいたって、騒がしいんです」
「…………」
「わたしたち、バラバラになっても、それは変わらないんですね。メリダ島でもなく、組織でもなく……わたしたちの絆が、わたしたちのミスリルなんですね」
みんなのやり取りを、テッサは愛しそうに眺めている。
「ふふ、本当に相変わらずですね」
「大佐殿。やはりさっきのは、ウェーバーをからかっていたのですか……?」
「当たり前じゃないですか。クルツさんにはさんざん振り回されましたからね。ちょっとした仕返しです。ふふ……」
「そうでしたか。では幽霊もご存知だったというわけですな」
「ええ。透明人間ともいうんですよね」
「違います」
ふう、とマデューカスは小さくため息をついた。そして彼女には気づかれない程度の、小さな笑みを浮かべた。
大佐殿も、いい意味で変わってきているようだ。それに、不思議なことだが、わたしも似たような感覚を抱いていた。
ミスリルはなくならない。形を失っても、今ここに、わたしたちのミスリルがある。

騒いでしまおう。
くだらない話も、この光景も、全部が大切なことだから。


テッサは楽しそうに、また騒ぎの輪の中に入っていった。

いつまでも変わらないヤツら



宗介のナンパ講座

作:アリマサ
mini.057

相良宗介は、生徒会として軽音部の部室の前に立つ。
軽くノックをして中に入ると、軽音部の男子生徒が、ギターを軽くジャンジャン鳴らして、遊びに来ていた女子生徒と談笑していた
「失礼。生徒会の者だが」
少し大きめの声で告げると、部員達は音楽を止めて、こっちを振り向いてきた
「げっ、あんたはあん時の、相良っていう……」
ギターの男が、宗介の顔を見るなり、引いていく
この男とは、面識があった
あれは前に、クラブの部室を賭けて、社会研究部が開催した『ナンパ勝負』で、個人的に対決した男だ
紆余曲折の末、俺はゼロだったが、千鳥が助け舟を出してくれて、罰ゲームはまのがれていた
そして軽音部のメンバーとは、それきりだったのだが

「な、なんの用だよ」
どうも、警戒されているらしい
「ただの連絡通達だ。事項内容はこのプリントに記載されている。俺はそれを届けに来ただけだ」
「な、なんだ。それだけかよ」
どことなく、軽音部の面々は、ほっとした
「丁度いいや。実はよ、俺たちもあんたに聞きたいことがあったんだよ」
「……なんだ?」
「ほら、前にさ、ナンパ勝負しただろ。そしたら終盤で、人妻と行っちまったじゃん」
「……ああ」
その人妻が、実は千鳥だったということは、誰も知らないことだ

「正直に認めるよ。人妻をかどかわしたってのは凄え。んでよぉ。あの人妻とは今、どうしてんだよ」
好奇心むき出しの目で、そう聞いてきた
(俺と千鳥が今、どうしてると言われてもな)
「別に、いつも通り会っているが」
その返答に、部室内がうわあーっと盛り上がった
「マジかよ。んでっ? 会うたびになにしてんのよ」
「そうだな……」
なぜか、遊びに来ていた女子生徒までもが、こちらの返答を楽しみに待っているようだった
「メシをごちそうになっている」
またも、部室内が黄色い声に包まれた
「人妻の家にお邪魔してんのかよー。メシって、やっぱ晩飯だよな」
「肯定だ。俺のマンションを訪れては、晩飯をどう? と彼女宅に招かれてな。彼女の手料理は美味い」
「くぅーっ、ノロけやがってよぉ!」
なぜかみんな、顔が赤くなっていた
「メシの他には? なにかしてもらってんのか?」
「そうだな。彼女の好意で、俺の洗濯物もやってくれている」
最近、そういうことにまで、手を回してくるようになった。
そこまで世話になって申し訳なく思うが、やはりありがたいことだった
「相良君、意外とやるぅー」
女子生徒が、にんまりと笑って、そう言ってくる
「でもよ、旦那がいるのに、大丈夫なのかぁ?」
他の部員が、人妻ならではの問題を指摘した
(旦那?)
その言葉は、俺にはよく分からなかった
「よく分からんが、彼女の自宅に訪れても、誰もいないぞ」
俺の返答に沿って、ギター男が、さっきの質問した部員をこづいた
「ばかだな。そんなのうまく留守中に呼んでるにきまってるじゃねえか」
「ああ、そりゃそうだな」
あははと笑って、それからギター男がこっちを見据え、俺の手をぎゅっと手に取った

「頼むっ。俺にも人妻のゲット法を伝授してくれっ」
「なに?」
すると、それに便乗して、俺も俺もと、他の部員達も宗介の周りに群がってきた
「やーねぇ、男子ってのは」
女子生徒たちが冷たい視線でそれを見やっていたが、男子部員は構わなかった
「人妻をゲットする方法?」
言っている意味が分からなくて、俺は聞き返した
「ほら! 前にナンパ勝負をしただろ。その時、あんたがどういう風に話し掛けて、口説き落としたかを知りたいんだよ!」
「ああ……」
あの時か。たしかに、あの時だけは特殊な話題を口にしたが、あれを知りたいのか
「別に構わんぞ」
俺がそう言うと、男子部員達がやった! と歓喜の声をあげた
「んじゃあよ、そこの女子生徒を相手に、口説き文句をぶつけてやってみせてくれよ!」
「いいだろう」
俺は、指定された女子生徒の前に立つ
みんな、俺の言葉をドキドキさせて、耳を澄ます。俺に口説かれる女子生徒も、頬を高潮させて、俺の言葉を待っていた
「――ソ連海軍の極東艦隊が使用している暗号方式について、新しい情報があります。俺とつきあってくれるなら、それを教えても構わない」

ごふっ

宗介の口説き文句に、なぜか部室内のみんなが、舌を噛んだのか、唇を切ったのか、口から血を吹いた
部員の一人が、口元に滲む血をぬぐった
「な、なんてマニアックな口説き文句なんだ……」
「それで堕ちる人妻もいるってわけか……。世の中、奥が深いぜ……」
「よおぉぉし、絶対に習得してやるぜ。そんでもって人妻とピンクライフを送るんだぁぁ!」
妙な熱気に包まれて、軽音部の連中はより一層テンションを上げていた。



数日後
テレビのニュースで、一人の女性アナウンサーがモザイクのかかった学校をバックに慎重な口調で告げた
「最近、某学校の付近で物騒な不審者が頻出していることがあきらかになりました。付近を通りかかる女性に対し、『新型ミサイル「ジャベリン」について、耳寄りな情報がある」、「防衛庁に浸透している、北中国軍のスパイの名前を知りたくないか」といった物騒な呼びかけがあったということで、地域の警戒を呼びかけるとともに……」

ほんとに実践してるのか



陣代式避難訓練

作:アリマサ
mini.056

「今日の午後は、火災を想定した避難訓練があります。サイレンが鳴ったら、決められたルートを通って避難すること。いいですね」
 神楽坂恵理が、朝の会で今日の事項を生徒に告げていく。
「それで、今回はウチのクラスから誘導係を一人出すことになりました」
 ええー、と億劫な声が漏れる。
「団地とか集団の状況を想定して、誘導も訓練として入れる方針だそうです。そこで、だれか火災訓練の誘導係をしてくれる人はいるかしら」
 そんな面倒な事を自分からやりたいと言い出す者はいない。ただ一人を除いて。
 気づけば、相良宗介はどこに用意していたのか、いそいそと防火服を着込み、フルマスクのヘルメットを装着した。
「……ん? 誰か俺のことを呼んだか」
「目ぇ合わせんなよ」
 小野寺の声に、誰もが視線を逸らす。
「……えーと。誰かいない? やってくれる人」
 宗介が、ぴっと指先をきれいに揃えて挙手した。
「いないみたいね。じゃあ、先生が決めちゃうわよ。千鳥さん、お願いできるかしら」
「ええー。かったるいなあ……」
「そう言わずに、お願いよお」
「んー、でもなあ」
「先生。俺が……」
 宗介が軽く手を振る。だが、誰もそれに気づかないフリを続けた。
「どうせそんなので内申が上がるわけじゃないんでしょ」
「そ、そうだけど……」
 承諾を渋るかなめの態度に、恵理は先生の威厳もなく、うるりと瞳を潤ませた。
「先生。ここに……」
 仕方なく、宗介はもう片方の手もぶんぶんと振る。
「職員会議で押し付けられたんだものぉ。どこも面倒事はわたしのクラスに押し付けて……うう、神の試練は厳しすぎるわ」
「泣かないでください、先生。それで最後に回ってくるのは結局あたしなんですから」
 宗介は、全身を使ってのジェスチャーを始めた。完全防火服と相成って、一挙一動が怪しく見える。
「わかりました。あたしが引き受けます」
「ありがとうっ、千鳥さん。それじゃ、後で避難ルートのプリントを渡しておくからね」
 がっしと手を握る二人。宗介がついに自分の席から動いて、それに割り込んだ。そして千鳥の目の前でくいっと腰をひねる。
「やかましいっ。さっきからなんなのよ」
「……見えていたのか」
「見たくなかったけどね」
「千鳥。なんなら俺が、その訓練の係になってもいいが……」
「あー、はいはい。そんじゃさっそく、あんたの思う避難訓練ってのを一分以内で説明してみなさい」
「ふ。それを語るには、一分では足りないくらいだ」
「足りてよ」
 宗介は目を閉じ、説明を始めた。
「辺りは炎の壁。傍には自力では動けない負傷者。置いていけば、負傷者は確実に死にいたる。方法は一つ、炎の壁を強引に突破すること。だが人は炎を前にすると、本能で身がすくむものだ。それを克服するための訓練として……」
 パンと千鳥が手を叩いて、宗介の語りを遮った。
「はい、ありがとう。残念ながらソースケは不合格です」
「まだ途中だが……」
「いちいちその勘違いを訂正するのも面倒なのよこっちは。大体、なんでそんなにあんたは面倒事をやりたがるのよ」
「一人でも多く、犠牲を出さないようにするためだ」
「いや、だからね。これは本当に災害を起こすわけじゃなくて……」
「俺は……まだ生存していた奴を見殺しにしたことがある」
「え?」
「それも二、三人ではない。爆風に煽られ、視界もままならない状態では往復ができなかった。助けを求める声は十を超えていたのに、俺の体力では一度に四人を運ぶのが精一杯だった」
「…………」
 ほかのクラスメイトは、また戦争オタクの妄想が始まったとぼやいていたが、千鳥だけはそれを流せなかった。
 宗介は、実際に経験してきたのだ。戦地を駆けていた彼は、そんな状況に何度も遭ったのだろう。
「地理に詳しければ、もっと経路を確保できた。なによりもキツかったのは、誰を救って誰を見殺しにするかを自分で選ばなければならないことだ。手を差し伸べられなかった人が見せたあの表情は、今でも忘れられない」
「……もういい」
「千鳥。俺はそんな想いを誰にも味わわせたくないんだ。そのために、俺は」
「分かった。分かったから。ソースケ、あんたに任せる」
 ええー、とクラスメイトが批判的な声を上げた。恵理も千鳥が譲るとは思わなかったらしく、戸惑っている。
 しかし、千鳥に撤回する気はもうなかった。
 正直なところ、適当に声を出してればいいだけだと軽く思っていた。避難訓練なんて、授業が潰れるだけのイベントだと。
 しかし、宗介は違った。勘違いもあるけれど、彼は常に真剣に考えている。それに気づくと、自分が恥ずかしくてたまらなかった。
 そういうわけで、宗介が誘導係として任命を受けたのだった。



 昼休み
 いつもは軽快な音楽が鳴って始まる放送が、けたたましい警報から開始された。
「なんだあ? 避難訓練はまだ先だろ」
 サイレンに訝しく思い、騒然とする生徒達。
『あー。こちら、安全保障問題担当の相良宗介です』
 その声に、なんだサガラの仕業かと、浮かした腰をイスに下ろした。
『この度、避難訓練の誘導員として拝命を受けました。今回は自分なりに考案した訓練方法を実施することになりました。えー、つきましては、訓練時の皆さんの状況説明をいたします』
 なんだか嫌な方向に動くのを感じ、生徒達は真剣に耳を傾ける。
『皆さんは自国を持たぬ難民です。定着した住処を退去しろとの命令が下ってしまいますが、これを拒否。そこで相手は武力で強制排除の行動に出るという策が打ち出されました。強襲班の武器は、銃と火薬瓶、手榴弾。そこでみなさんは武力制圧から、安全な中立地帯に逃げ込むという状況を想定して訓練を行います』
「どういう状況だ、ボケッ」
 非難の声が、学校中で響く。

「カナちゃん。火災じゃないの?」
 恭子の疑問に、かなめは額に手を当てた。
「そういや、あいつの勘違いを訂正しておくの忘れてたわね……」
 うんざりして、結局こうなったことに呆れるかなめ。
『逃走経路は、中立国から派遣された救出部隊が指示を出します。その指示はこの放送を通じて伝えますので、その声に従って、効率的に避難して下さい』
 パラパラパラと騒がしい音が近づいてきた。なんだなんだと生徒達が窓の外に目を向ける。
 いかにもな戦闘用のヘリが迫ってきていた。どう見ても今の日本に不必要な、戦争でよく見かける外装だった。
『強襲班は、自分のつてを使って、ある部隊に協力を要請してあります。それが到着した後、サイレンを鳴らします。ちなみに強襲班の銃はペイント弾を使用しますが、射出威力はそのままですので、当たると痛いです。そして、この避難訓練において、五分を制限時間とします。強襲班が痕跡を消すために、襲撃地帯を爆破したという設定にしてありますので。もしその制限時間を越えても避難できなかったクラスには、しかるべき罰を与えます』
 つんざくような悲鳴が、窓越しに響いた。七組の方からで、特に富田の声がトラウマを負ったような悲痛さに満ちていた。
「げっ、あれは……」
 近づいてきたヘリから見えた屈強な男たちに、かなめたちは見覚えがあった。
 先月の文化祭。そのときに七組の喫茶店を滅茶苦茶に荒らしまわった暴力的な外人たちだ。その事件に、七組は心に傷を負ってしまったらしい。
「こ、金輪際来ないでって言ったのに……」
 窓に手をついたままうなだれるかなめ。
「こりゃあ、思ってた以上にヤベエぞ……」
 地獄の文化祭を体験した生徒たちが、身の危険を悟って辺りを警戒し始める。
 あの外人たちは、手加減というものを知らない。なにかに熱中したら周りが見えなくなるタイプばかりで、巻き添えを食らった生徒も少なくない。

『では、諸君らの健闘を祈る。訓練開始−−』
 サイレンが鳴り出すと同時に、全教室の扉が勢いよく開かれた。
 生徒たちは、それでも迅速かつ効率的に動いた。軽いパニックはあったが、逃走経路を整然と駆けていき、混雑して行き詰るようなことはなかった。
「ふむ。意外にもきっちりと行動できているではないか。俺の見立てでは、経路を外れて我先にと出ようとすると思ったのだが」
 避難する様を遠巻きに眺めていた宗介は、生徒の避難ぶりに感心していた。
「そりゃあね。あんたが今まで、爆破とか毒ガスとかウイルスとかいろんなことをやらかすたびに、避難せざるをえなかったんだから。あんだけ回数こなしたら、そりゃ避難も上手くなるっての」
「千鳥。なぜここに」
「さっき、校舎を出ようとしてあんたをちらっと見かけたからね。一回しばいておこうと思って」
 どこからか取り出したハリセンで、バシンと頭をはたく。
「……久々な痛みだな」
「浸ってんじゃね−わよっ。まったく、勝手にサイレン鳴らしちゃって」
 いつもの問答をしていると、割り込むように女子生徒が駆け寄ってきた。七組の生徒だったはずだ。
「どうした。まだ避難できてないのか」
「それが……。避難経路途中にある扉が閉まってるの。外人が先回りして、押さえられちゃって」
「なんだと。予定と違う」
 急いで、七組の避難経路に向かう。千鳥もなんとなく釣られて、一緒にその場所へと駆けていった。
 七組の避難経路上の、いつもは開いている防火扉が閉められていた。その前で銃を持った外人が、七組を阻んでいる。七組の生徒たちは、物陰に隠れて、縮こまっていた。
「ノリス……! どういうことだ、これは?」
 本来なら、屋上から一階ずつ下に降りて、強襲する手はずになっていた。それなのに、すでに二階のここを封鎖しているのはおかしい。
「よお、サガーラ。なあに、ここを閉めてしまえば、足止めできると思ってな。外の窓から先回りして押さえたのよ」
「それは予定には組み込まれていないはずだ。独断でこんな真似を……」
「そういうなよ。訓練中に予定外のトラブルを入れるのは当たり前だろう。それをいかに対処するかを試されてたじゃねえか俺たちは」
「それは向こうの訓練だろう。それにここの生徒は戦士ではない。設定では、武力を持たない難民と言っておいたはずだが」
「いちいちそんなこと考えてらんねえよ。俺たちは戦うだけなんだぜ。逃げる者がいたら、追い詰めたくなっちまうだろう」
 彼らの目つきに、戦場そのものの狂いが混じっていた。論理的な説得が通用しない。
「やはり戦場上がりからすぐに呼んだのは間違いだったか。一日空けておけば覚めてると思ったんだがな」
 宗介は腰元から、銃を引き抜いてスライドを引いた。
「ちょ、ちょっと。まさかあんた、撃つ気じゃ」
「心配するな。これも奴らと同じペイント弾だ。俺が注意を引き付けておくから、その間に防火扉を開けて、外へ逃げろと伝えておけ」
 後半は七組の女子に向けられた。女子は震えながらもこくんとうなずいて、そこらに隠れてるクラスメイトの元へと寄っていった。
 その女子に、一人の外人が目ざとく見つけ、その身柄を拘束しようと手馴れた動きで突っ込んでいく。
 パン、と宗介の銃が火を噴き、男の顔にペイントが張り付いた。視界を奪われた男は、目標を見失って、校舎の壁に激突した。
「今のうちだ、行け!」
 この銃声で、こっちの潜む場所を知られた。数人の外人が、殺気立てて銃を構えてきた。傍の壁に、ペイントが被弾していく。
「千鳥、ここは危険だ。俺のことはいいから、後ろから逃げろ」
「……あんた、マジに友達は選びなさい」
 言い捨てて、千鳥は後ろから逃げていく。
 ガラスが割れ、どこかが爆発した。悲鳴と猛る声が飛び交う。
 宗介もまた戦場の目になって、その中心部に突っ込んでいった。



 ペイント弾が絶え間なく行く手を遮る。
 数が多い。武器に殺傷能力はないが、当たり所によっては気を失う危険もある。
 射撃範囲に入らないように注意して、戦況を分析する。
 お互いが冷静なら、膠着状態に持ち込める。だが、今の彼らは戦場の狂気が抜け切っていない。血を求め、多少の犠牲を捨てても構わないという自暴に至る可能性がある。
 このままでは時間の問題か。そう思ったとき、思わぬ援軍が到着した。
「軍曹殿ッ、やはりここでしたかあッ」
「郷田、なぜここに?」
 ラグビー部の連中が、こぞって集まってきていた。授業の時間帯だっただけに制服姿だったが、彼らの目つきは部活中のものになっていた。
「校舎のガラスが割れて何事かと周りに聞いたら、軍曹殿が暴走した敵と戦ってるって。それで俺たち、血が騒いで、居てもたってもいられなくって。応援に来たんすよ」
「いい判断だ。その働きを見せてもらうぞ」
 にいっとラグビー部の連中が笑みを浮かべた。
「あの時の特訓を思い出せ、野郎ども!」
 宗介の飛ばした激に、ラグビー部たちは呼応する。
「ガンホー! ガンホー! ガンホー!」



「くっくっく。逃げ出す民衆どもを見下ろすのは最高だぜ」
「非武装民衆のビビる顔が滑稽ったらよぉ」
 防火扉の周辺を陣地にした外人どもが、下卑た感想を述べ合う。
 ここには脅威はない。訓練なんぞ知ったことか。俺たちはストレス溜まってんだ、好きに暴れさせろ。
 彼らにとって、ここは安全地帯で自前の王国だった。
「報告。一部のエリアで抵抗が起きてる模様。こちら側に負傷者が続出です」
 通信機の向こうから、仲間の焦った声が届いてきた。
「なんだと? 内部に裏切り者か?」
「いえ、抵抗してるのは生徒だそうです。どうも、妙な拳法の使い手らしく、苦戦中」
「生徒だと? 平和ボケした軟弱な国の若造に、ツワモノの俺たちがやられてるってのか? 寝ぼけ事は手前の頭の中だけにしろ!」
 乱暴に切って、くだらない報告を断ち切った。
 それと同時に、今度は近くの仲間が、直接呼びつけてきた。
「なにかが向かってきます」
 指したその先に、なにかの群れがあった。一瞬、暴走した猛獣の群れと錯覚した。ここは日本だと気づき、もう一度そっちを見やる。
 スクラムを組んだ、男子生徒の突進だった。
「バカが。撃て!」
 ペイント弾が、群れに向けて集中砲火。しかし、彼らの勢いは思いのほか凄まじく、止まろうとしない。
「ペイントと分かってりゃあ怖くねえ。ぎったぎたに押し潰せ!」
 郷田の掛け声で、さらに勢いが増す。
「狙いを急所につけろ。さっさと崩せ!」
 ノリスの新たな指示が下される。それでも彼らは怯まなかった。地鳴りが大きくなり、彼らの顔が見分けがつくようになって、ようやく彼らは危険を悟った。
 彼らの目が、自分以上の狂気を孕んでいる。こいつらは、俺たちと同じ戦場にいる……!
 ラグビー部の突進は誰にも止められず、避難経路を遮断していた防火扉に正面からぶつかった。
 激しく鈍い音がして、防火扉が吹っ飛んだ。構造上かなり丈夫であるはずの防火扉が、あっけなく。
「んなっ?」
 戦車並みの破壊力か、こいつら?
「やばい、撤退しろ! 急げ急げ!」
 こっちは殺傷能力の無い武器だけだ。まともにやり合うのは不利だと、後方に下がる。
 だが、階段のところで、先に逃げ出したはずの仲間が立ち止まった。
「なにしてる。早く行け! はや……」
 階段の向こうからゆらりと現れたのは、チェーンソーを持った中年。
 なぜか、武器以上にその存在に戦慄を感じた。
「カトリーヌの墓を荒らしおって……。貴様らぁ……」
「カト……? なにがあったんだ?」
「それが、小さな石ころを邪魔だと蹴飛ばしたら、いきなり用務員室から……」
 よく分からないが、男の持つチェーンソーはヤバすぎる。
 ギュイイインと、男の怨念が乗り移ったかのように、不気味な音を走らせて刃がうなる。
「ちょ、落ち着いて。ほら、これワカル? ペイント弾よ。ほーら、当たっても死なナーイ。僕タチ危なくナーイ、オーケー?」
「ダーイ……」
「くそっ、駄目だ。仕方ねえ、サガーラにゃ禁じられてたが、食らえッ」
 腰元から手榴弾を引き抜いて、中年男に向けて投擲。
 ところが、それが爆発すると同時に、男は中年とは思えぬ速さで床を蹴り、壁を蹴り、いつの間にか天井に張り付いていた。
「ダーイ」
 さっきと同じことを繰り返しつぶやいて、チェーンソーを振りかぶって降りてきた。
「く、クレイジーッ!!」
 薄れゆく意識の中、外人たちはこんな疑問が脳裏をかすめた。
 ――訓練されてるのは、ひょっとして俺たち……?



 暴走外人の鎮圧が済んだところで、宗介が出てきた。
 そして彼は、ぼつりと一人語る。
「一応は椿も含め、この学校の防衛能力をしかと確認させてもらった。これならば、これからも俺がいなくてもある程度の襲撃者には対応できるだろう」
 生徒たちもこの被害の大きさにかかわらず、きっちり避難していた。そのことも高く評価して、彼は満足気に頷く。
「さて……」
 外人たちをのしてもまだ足りなそうな用務員、大貫と目が合った。
「逃げるか」  



 一時間後。
 半壊した校舎の前で、生徒全員が集まっていた。
 消防車が時間通りに来て惨状を目の当たりにして呆気に取られてるのをよそに、宗介が挨拶で締めにかかっていた。
 彼は被害の度合いを引き出して、生徒側に負傷者が一人もでなかった避難の結果を熱弁に振るう。
「これも独自の訓練のたまものと自負しております。これからも精進を心がけ、日頃からこの訓練を続けたいと思い……」
 それから先は、後ろに控えていた校長と生徒の一部によって蹴たぐり倒されて、打ち切られたのだった。

陣代部隊、勝利ッ



アルの再会

作:アリマサ
mini.055

 相棒を失った哀しみは、思いのほか深いものだと一人になって気づかされた。
「アル……」
 ぼそりと口に出してみるが、返事が来ようはずもない。アーバレストは、完全に破壊されたのだ。
 宗介は、胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感を抱いたまま、寂れた街の中をさまよっていた。

「失って初めて、あいつの存在の大きさに気づいてしまうとはな……」
 目を閉じると、アルの姿が浮かんでくる。操縦席のディスプレイモニター。外見上は無機質だが、それはとても陽気な声で、宗介に茶目っ気を混ぜた会話を投げかけてくる。
 俺はそれに幾度となく冷たい態度で跳ねつけたものだ。
「もう一度、会いたい。アル……」
 実際には流れてなかったが、宗介の目には涙がこぼれていた。かげがえのない戦友。なにものにも代え難い相棒。
「アルぅぅーっ!」
「はぁーいっ!」
 いきなり声が被さってきて、びくっと身をすくめた。
 声の方には、一人の少女がいた。
「千鳥……?」
 いや、千鳥ではない。ほとんどパーツは似ているが、別の少女だった。
「誰だ……?」
「あなたの相棒です」
 精神病院から抜け出してきたのだろうか。この近くに、そんな設備があったろうかと脳内で地図を広げて探る。
「分かんないでしょう。わたしは元アーバレストのAI。プログラムを少女ベースの合成人間に転送させて、生まれ変わりました」
「……まさか」
 すると少女の声が、機械的なものになった。
<二機撃破。さすがです、軍曹殿>
 その声、その口調。それは失ったはずの相棒そのものだった。
「まさか、君は……」
「そう。アル子です」
「アル子って……」
「こうして女性に生まれ変わったからには、最後に子をつけなければなりません。そうでしょう、軍曹」
「……生きていたのか」
 主軸となるプログラムは、間一髪で消滅を避けることができたらしい。
「どうです? 嬉しいですか? 嬉しいのでしょうか?」
「複雑だ。第一、なぜそんな姿に?」
 あのごつごつしたアーバレストの機械と、目の前の女性版合成人間ではあまりに違いすぎる。
「どうせ生まれ変わるなら、カワイイ女の子のほうがいいじゃないですか。この姿も、軍曹の好みに合わせてるんですよ」
「俺の好み?」
「軍曹のデータからいろいろと分析して、各パーツを軍曹の好みのものばかりセレクトしたんです。その結果、こうなりました」
 さらさらとした長い黒髪。意志の強そうな瞳。整った顔立ち。細かい部分は少し違うが、やはり千鳥に似ていた。
「結果、千鳥かなめにほとんど近くなったのは、まあその、アレですよね」
「アレとはなんだ」
「しかし、胸だけは本人より少し小さくなってるのが残念ですけど。これが軍曹の好みなら仕方ないですね」
「おい」
「ともあれ、これでわたしも軍曹と同じ人間として、同等に付き合えるわけです」
「付き合う?」
「相棒。それは生涯を共にする人生の伴侶。という意味もあるんですよね」
 嫌な予感がして、アル子と距離を取る。しかし、向こうから腕を強引に組んできた。
「逃げないで。わたし、千鳥かなめにも負けない恋愛っぷりする自信ありますよ」
「離れろ」
「つっけんどんにしても無駄です。軍曹の好みだけをチョイスした集合体、アル子。その魅力から逃げられるとでも思うんですか?」
 じっと下から見つめられる。初めて正面からまともにその姿を見て、宗介は思わずどきりとした。
 合成人間とはいえ、外見上人間との区別がつかない。関節部分に切れ目はないし、皮膚細胞も人間と変わらない。組まれた腕からは温もりも伝わってきた。
 なぜか鼓動が早まる。彼女の姿をずっと正視できず、ぷいと横を向いた。
「軍曹。わたしは、軍曹の相棒なんですよね」
「いや、確かにそうなんだが、いやしかし……」
 言葉を濁すだけで、なぜか思いっきり否定ができずにいた。
 その後のことはよく覚えていない。アル子の積極的な攻めにじたじたになり、アル子に押される形でつき合うことになってしまった。
 許されるわけがない元ロボと操縦者の禁断の恋。
 彼女は目からビームを出すこともなく、ごく自然に人間として、宗介の新しい彼女として振る舞っていた。
 遊園地、劇場、射撃場、模擬訓練。デートの回数を重ねていく事に、それは次第に演技ではなくなっていった。
 宗介の心はいつの間にか、千鳥でもなくテッサでもなく、アル子に占められていった。

「アル子……俺は、お前のことが……」
 そして数年後、二人は本当の意味での相棒となって生涯を送ることとなる。



『……以上です』
 <アーバレスト>から新機体の<レーバテイン>に生まれ変わったAI・アルが、倉庫の中で操縦者の宗介に告げた。
『レーバテインとして発進するまで、ずっと倉庫に閉じこめられ、暇を持て余して作ったこの大作。どうでしたか』
 しかし、操縦者の返事はない。
『軍曹殿。よければ今のを映像化させたものもありますので、ご覧に……』
 ガシャアンとディスプレイが操縦者の相良宗介により叩き割られた。

 アルは、レーバテインという新機体での、初の修理入りとなったのだった。

ミスリル兵士には好評とか



ふもっふ 3

作:アリマサ
mini.054
それはいつもと同じ朝だった

「あー、かったるー」
千鳥かなめは太陽の日差しを鬱陶しそうに思いながら、いつもの登校途中で常盤恭子と出くわした
「ふもっふ」
「うん、おはよ、キョーコ」
「ふもふもー」
「え? 駅前のケーキが安売りなんだ。ふーん、じゃあ帰り寄ってみよっか」
「ふもー」
このとき、まだ千鳥は違和感に気づいていなかった。
この異常事態に気づいたのは、教室に入ってからである

「ふもふもふもー」
「おはよ、小野寺」
いつものように、手を振って自分の席に行こうとする。だが、小野寺はなにかを喚いていた
「ふもっふもー!」
「どうしたのよ、慌てちゃって」
「ふもふもふもっ。ふもー」
「おかしいと思わねえのかって、なにを?」
「ふんもー」
「え? 喋る言葉が全部ふもっふになる? ……そういえば」
小野寺はボン太くんスーツを着ているわけではない。それなのに、よく聞けばふもっふ語で喋っていた
小野寺だけではない。クラスのみんなも、口に出そうとするのは全部ふもっふ語。
「ふもっふぅー」
「キョーコ。よく聞けばあんたもふもっふ語じゃない。なんで早く言わないのよ」
「ふもっふ……」
「え? あたしがいつものように接してくるから、つい忘れてた? ったく……」
「ふも? ふもふもー?」
「なによ小野寺。オレの言葉が分かるのか、って?」
「ふんもー」
「お前、ふもっふ語が分かるのかって? そういえば、なんでかあたしって分かるのよね。ふもっふ語……」
「ふもっ?」
「ふもふもー!」
クラスのみんなも、千鳥がふもっふ語を理解できることを知って、わらわらと彼女に群がっていく
そして千鳥をみんなで胴上げして、彼女の存在に感謝した
「ふんもー(救世主ー)」
わっせ、わっせと千鳥を崇めるように彼女をよいしょしていく
「ちょ、ちょっとやめてよ。下ろしてったら、もう」

*以下、千鳥の同時通訳が入ります
「ふもっふ、ふもー(それにしても、なんでいきなりこうなったのか)」
クラスのみんなが円陣になって、その中の小野寺が腕組みして言った
「ふもっふ、ふんも(起きたら、いきなりこうなってたんだよな。ったく、なんなんだ)」
「ふもっふる。ふもっ(でも、こうなったのはこのクラスだけみたいよ。さっき他のクラスの子につい挨拶したら、『アンタどこの星の生まれよ』って言われて恥かいちゃったもの」
「ふもっ、ふもっ、ふもー(異常が起きたのはウチのクラスだけかよ。ますます嫌な感じだぜ)」
「ふんもぅー(なんとかならねえのかよ。このままじゃみっともないよ。せめて原因は分からんのか)」
「ふもっふ。ふもっふ(そういえば、どうして千鳥は普通に喋れるのかしら……って、ええっ)」
「あ、あたし? そういえば、どうしてなんだろ。別にあたし、変わったことはしてないけど」
うーん、とみんなで首をかしげた

すると、ガラリと教室の戸が開き、相良宗介が入ってきた
「ふもっふ、ふもー(よぅ、相良ぁ)」
「うむ。……どうかしたのか、みんな」
ざわっと、クラスのみんなが彼に注目した
「ふもっふ、ふもっふ(相良の奴も、まともに喋れてるぞ)」
「ふもー、ふもっふ(相良ぁ。お前、なんともないのか?)」
「俺はいたって健康だが。なにか異常が起きてるようだな」
「もっふる。ふんもー(ああ、異常中の異常だ。オレたちどうなるんだ)」
「ふんもぅ、ふんもー(あたし、このまま授業に出るの嫌ー。恥ずかしくってもう喋りたくないわよっ)」
女子生徒の悲鳴を聞いて、宗介はふむと腕を組んだ
「それならばひとつ、俺に提案があるのだが」
みんなが『?』と彼の次の発言を待つ
すると宗介は、どこに隠していたのか、ボン太くんスーツを何着も引きずってきた
「これを着てみてはどうだ。これなら外見には違和感がなく、ふもっふ語を喋っても恥ずかしさは激減すると思うのだが」
さらに宗介は、丁寧にボン太くんスーツの機能を説明していく
「強化機能もついていて、中の温度を保つため、蒸れることなく快適だぞ。ぴったりフィットする着心地で、今なら無料貸し出しできる。その代わりといってはなんだが、他の者にもボン太くんスーツの良さを宣伝してほしいのだが……」
そこまで言って、宗介はクラスのみんなの目が、疑惑の眼差しに変わっていることに気づいた
「……どうした?」
「ふも。ふんもー?(相良ぁ。今回、やけに準備がいいなぁ?)」
「うむ。如何なる事態にも備えておくのは当然のことだ」
「ふんも、ふもっふ(宣伝ってナニかしら。まるでそれが目的みたいな言い方ね)」
「そんなことはないぞ」
「ふもっふ。もっふる(大して驚いてもいねえし。初めからこの事態が分かってたんじゃねえの)」
「気のせいだ」
しかし、クラスの尋問は終わらない。じわじわと、彼らの間に殺気が滲んできていた
「ふもっふ、ふもー(相良。正直に言え。オレたちになにをした)」
その言葉で、宗介はついに観念した

「昨日みんなに配った土産だが、それにある薬品を混ぜていた」
「もっふる。もふー、もふー?(昨日の土産って、『○い恋人』のアレか?)」
「そうだ。その薬品には『ボン太菌』を発症する効果があってな。ふもっふ語しか喋れなくなる」
「ふもっ。ふんもふんもー!(くっそー。国内の土産だから油断して食っちまったぜ)」
「だからあたしの時だけ、食べさせてくれなかったのね」
千鳥が、昨日のことを思い出して、ようやく納得がいっていた。
がっとクラスのみんなで宗介の胸倉を掴みあげた
「もっふる。ふもー(なんでオレたちにこんな真似しやがった)」
「うむ。個人事業のボン太くんスーツの売れ行きがよくなくてな。そこで、みんなに宣伝の協力をしてもらおうと、まずはボン太くんスーツのよさを知ってもらうために、スーツを着る必要性を生み出すきっかけとして……」
「ソースケっ。どうしてクラスのみんなをそんなことに巻き込むのっ。犯罪に近いわよ」
千鳥が先頭に立って、宗介に問い詰める。
だが宗介は、特に反省した様子も見せず、淡々と告げた
「現状で使えるものを最大限に生かすのは商売業の基本だ。かつてナチスは、軍資金を得るために、ある飲み物のCMに人間の目では認識できない速さである画像を見せる。それを見た国民は、その商品が買いたくなってしまったという事実が……」
ぐいっと、クラスのみんなはさらに胸倉を乱暴に掴み上げた
「ふもっふ。ふもっ?(解毒剤みたいなもんは?)」
「……カバンの中だ」



一時限の英語の授業で、神楽坂恵理は黒板の問題を解かせようと、相良を指した
「ふもっふ……」
「……相良くん。なにふざけてるの。この答えは?」
「ふもふも」
「先生ー。ソースケは『朝起きたら犬のジョンがいなくなっていた』って言ってます」
「合ってるけど……。千鳥さん。どうしてあなたが答えるの?」
「いえ、あたしは通訳しただけで、答えたのはソースケです」
「……?」
恵理は眉をひそめたが、また訳のわからないことに巻き込まれそうだと察したのか、次に進んだ

「ふぅ……」
宗介は深く息をついた
今、宗介はクラスのみんなに罰を与えられていた
それは、今日一日、宗介だけずっとふもっふ語でしか喋らないことだった。
宗介は隣の助け舟を出してくれた千鳥に感謝の意を伝える
「しかし、生身でふもっふと言うのは結構恥ずかしいのだが……」
「あれ、そうなの? あたし、ソースケはふもっふふもっふって言うのが好きなんだと思ってた」
「いや、あれはスーツが勝手に言語変換してるだけであって、こうして……」
そのとき、どこからか消しゴムなりシャーペンが飛んできて、宗介の額に突き刺さった
「相良ぁ。てめーは人間語を喋るなっ」
他のみんなもその声にうんうんと頷いた
「…………」
宗介は恥ずかしそうに少し俯いて、ぼそりと答えた

「……ふもっふ」

ふもっふ、ふもー



現実世界のフルメタ

作:アリマサ
mini.053

雪の降った道通りで、少女は首に巻いたマフラーに口をうずめた形で歩いていた
二つに分けたツインテールの黒髪で、整った顔立ち。しかし、その表情は沈んでいて暗い少女を彷彿とさせた

――みんな、つまんない顔してる

少女とすれ違っていく人々の顔をちらちらと見ては、マフラーの中で小さなため息をついた
疲れを顔に出した中年のサラリーマン。化粧をして、ただ自分を飾ってるだけの中年女性。
本来なら元気の塊であるはずの子供も、あまり外では遊ばないのか、つまらなさそうに道を歩いていた
こういう人たちを見ていると、こっちもつまらなくなってくる。いや、面白いことなんてないのだが、いちいち自分は退屈な状況にあるんだということを思い知らされるのが嫌になるのだ
人の表情が乏しくなっている
少女の周りは、変化というものが無かった
決められた一日を淡々と過ごす。そしてそれがフィルム映画のように、何度も繰り返される
誰も少女に向けて表情を変えることは無かった。笑顔を振りまくこともないし、興味を示す者もいない
見えるのは、退屈、面倒、怠慢。それらのつまらない感情が表情として浮かぶだけだった



少女は図書館に入った

本の世界は好きだった。そこにはいろいろな感情の混じった世界が描かれてるからだ
滅多にない人生の中の激変を、一冊の本に凝縮されて収められている。その変化を感じ取るのが少女は好きだった
少女は窓辺の、端のテーブルのイスに座った。一つのテーブルにつき、四人分のイスが用意されている
そしてそのテーブルに本を置いて、自分なりの読書のひとときを過ごさせてくれるのだ
少女のついたテーブルには、他には誰もいない。他のテーブルになら、二、三人くらいはいたが、今日はどうやらあまり人はいないようだ
だがそれは大した問題じゃない。本が読めればいい
少女は星新一のショートショートを手にしていた。今日はそれほど図書館にいるつもりはなかったし、短い時間を楽しむならショートショートだ

二つほどの話を読み終えたところで、誰かが少女のテーブルに、少女と向かい合う形で席に着いた
それは自分と同じくらいの年端と思わせる少年だった。あまりスポーツが得意そうには見えなかった。しかしひょろひょろとした感じでもない普通の子だな、と外見だけで予想してみた
すると少年は、学生鞄の中から一冊の本を取り出し、それを読み出した
それはあきらかに図書館の本ではなかった。ビニールがかぶせられてないし、図書館特有の図書番号のシールが貼られてないからだ
図書館の中でも、図書館の本ではなく、家から本を持ってきて読む人も少なくない
ただ読む場所が欲しいのだ。こういう落ち着くところで読むのを好む人は多い。そして図書館側もそれで文句を言う人はいない
それより、少女は少年の読んでいる本の表紙を見て、なにか見覚えがあるような気がした
表紙は、タイトルだけじゃなく、絵が入っていた。それも一般書とは違って、アニメキャラのような絵と背景が入っていた
ライトノベルだ、とすぐに分かった

実は少女もライトノベルを持っていた。ここにではない。家に収めてある
ミステリー物や一般書も読むが、ライトノベルも好きだった。
そして目の前の少年が読んでいたその絵。二人の愛らしい少女が、拳銃を構えた少年を遊園地に引っ張っているイラストだった
フルメタだ、とすぐに行き着いた。タイトルに注視すると、『本気になれない二死満塁?』と書いてある。やはり、と思った
そして次に、すごいなあと思った。
ライトノベルは、一人で読むときにはいいが、他の人がいる中で読むのはかなり度胸がいる
そういうときは、大抵無地や本屋のロゴが入ったカバーで隠すのだが、少年はそれをしていなかった。だからすぐに何の本か少女には分かったわけだが。
そして感心したあとは、無性に嬉しくなってきた
実は少女もフルメタルパニックは持っている。そして大好きだった
フルメタの存在を知ったのは二年前。ライトノベルのことを知ったのも二年前だった。
つまり、初めて読んだライトノベルがフルメタだったのだ
それからも他のライトノベルの作品は読んできたが、今でもフルメタが自分の中では一番だと思っている
当然、最新刊まで揃えていた。最近出たのは、『あてにならない六法全書』。この巻数になっても面白さが衰えてないのはさすがだ

ちら、ともう一度少年の読んでいる本の表紙を見た
『本気になれない二死満塁?』は、シリーズの二巻目だ。
少年にとって、その本は今初めて読むことになってるのだろうか。それとも一度読んで、また読み返してる所なのだろうか
もし今が初めてだとしたら、まだ彼は椿一成とか用務員とかぽに男を知らないのだろうか。いや、ぽに男はどうでもいいけど。
その時、少年の口元が緩んだ。笑ったのだ。そしてその表情を、少女はかわいいと思った
もっとも少年にとっては、かわいいと言われても嬉しくないだろうが。
それにしても、どういう場面を読んで笑ったのだろう。
ここから見えるのは、本の分かれ目だ。そしてその前後の厚みからして、まだ半分の手前といったところか
そこで少女は、二巻目に納められた話を思い返した。
たしか最初のは誘拐とかで、林水と宗介が不良をやりこむといった……妥協無用のホステージだ。その次はなんだったかな
その時、ちらと少年がページをめくるとき、イラストが見えた
挿絵のイラストだろう。そして見えたのは一角だが、やたら顔のでかいかなめが、涙目を噴水のようにぶわっと流していた
思い出した。空回りのランチタイムだ。これもお気に入りの話なので、詳細がすぐに頭の中で再現される
ノートを借りた宗介が、返すのを忘れてしまい、かなめと四苦八苦するのだ
その話で笑ったんだ、と分かると、少女は不思議な感覚に包まれていた。共感というのだろうか。自分の好きな作品を、他の人が楽しんで読んでるというのはなぜか嬉しくなる
少年は、あまり表情を隠すことができないようだ。声には出さないが、ひくひくと可笑しそうに頬を引きつらせたりしている
その表情の変化を、いつの間にか少女は眺めていた
手に持っていた星新一の話が頭に入ってこなかった。それを読むフリをして、少年を観察するのに夢中になっていた

あっ、また笑った。
笑う度に、少年はかわいくなる。
声をかけてみようかなと思った。そしてフルメタのことでいろいろと話してみたいと思った
だけど、そうするだけの勇気は持っていなかった。でも残念だとは思わない
いいのだ。ただこうして、眺めているだけで
そういえば、と少女はふとなにかに気づいた
二巻目は、なにか大事なポイントがあったような気がしたのだ
それを引き出そうとして数秒、思い出した。
二巻目には、『やりすぎのウォークライ』という話があるのだ
ラグビーの話で、すごく優しいラグビー部員が、宗介の特訓によって変わってしまうギャグものだった
あれはフルメタファンの間で非常に評価が高い。そして笑ってしまう話だった
少女も、初めてそれを読んだ時、声を出して笑ってしまった。その時、一人で自分の部屋のベッドの上でよかったと思う。周りに人がいたら、きっと引いただろう
なにせあまりにおかしくて、腹を押さえてぶるぶると震えていたのだから。
もしこの少年が、今読んでるのが初めてだったら、絶対に笑ってしまうだろう
それを想像すると、その時がすごく楽しみになった
なにせここは図書館だ。うるさくしてはいけない。だが、もしあのガンホーだとかの場面を読んでしまったら、笑わずにはいられないはずだ
その時少年はどうするだろう。ここが図書館だということも忘れて、大声で笑ってしまうのだろうか
それとも必死に口を押さえて、腹を押さえて、我慢するのだろうか。パンパンと頬を叩いて押さえ込むのだろうか。それができるのだろうか
ビデオカメラがあればよかったのにな
あいにく、少女の持ってる携帯は動画は使えない。カメラも無いので、その時の様態を残すことができない
手元にそれがあれば、すぐに鞄をテーブルの上に置いて、そのわずかな隙間にカメラを仕込んで、撮るのに。
だがないのだから、それは諦めた。そのかわり、この目でしっかりと見ておこう

時計の針は、少女が図書館を出ようと決めていた時刻をすでに過ぎていたが、もう関係なかった
早く例のその時がこないかなと、手元の本をめくる仕草をして、待ち続けていた
だが少年の読書のスピードは遅いほうだった。一枚めくるのに二分近くもかかるのか。
読書歴が浅いのか、じっくりと読むタイプなのか
もはや細かい表情の変化はどうでもよくなっていた。そして、今はどこなのかが気になった
もうあの話には入ってるのだろうか。だが、こちらからではそれが分からない

ふと、少女は本を閉じた。そして立ち上がり、少年の後ろにある本棚に歩み寄った
本を探すフリをして、覗き込んでやろうと思ったのだ
少年の真後ろに立った。少年は本に夢中らしく、こっちの動きには無関心だった。
少女は本棚から適当に本を抜き取り、パラパラとページをめくる
そして手を動かしながら、視線を少年の向こうの本の文字を注視した
少年が陰になってよく見えなかったが、端っこの三行ぐらいの台詞は見て取れた
『「似たようなものだろう」
「ちがうわよ。それから神社の中ではね、あんまりヒドいことを口にしちゃいけないの。神様の来るところで『ここは異常だ』なんて。バチが当たるわよ?」』

それだけで、今少年が読んでいる話が分かった
神社と異常だとバチが当たるのキーワードさえ掴めば難しくないことだ。
これは宗介とかなめの台詞。ならば答えは簡単。『罰当たりなリーサル・ウェポン』だ
バイトで常盤恭子と千鳥かなめが巫女としてバイトし、宗介が勘違いして助けに行くという話だ
たしか、それならば次の話は例の『やりすぎのウォークライ』だ。
早く次にいけ。もっと笑えるんだから。
少女はそう念力を送ったつもりだった。
すると少年は、急にパラパラとページを大きくめくった
どうしたのだろう、と見守っていると、最初あたりのカラーページのイラストで手が止まった
このライトノベルでは、最初の数ページに、ある場面をカラーで描いた一枚絵があるのだ
そして少年は思い出したのだろう、開いたのはさっき読んでいる話の部分だった。
かなめが巫女の姿で、木の枝におみくじを巻きつけている絵だ。ホウキをわきに抱え、リボンで髪を束ねてるその姿に、しばらく少年は釘付けとなっていた

適当に取った本を持って、少女はさっきの席に戻った。ちらりと少年の顔を見ると、少し目の端が垂れていた。あきらかににやけていた
たしかにあのイラストのかなめは可愛い。こういう風に、男性読者を釘付けにさせているんだろうな
それは分かる。それは分かるのだが、一体何分、そうしてるつもりなのだ
余韻に浸るのも結構だが、こっちは次の話を読むのをずっと待ってるんだから
少女の脳内では、ずかずかと彼の横に来て、バッと本を奪い、『やりすぎのウォークライ』のページに合わせて、それを呆然としている彼の眼前に突きつけて、「さっさと読め!」と言っていた
本当にそうしてやろうかと思う反面、身体は動かない。そんな行動力があったら、すでにフルメタ仲間として話し掛けている
ぐぐっと、手に持っていた本に力が入る
すると、ようやく少年はパラパラとページをめくった。イラストを思う存分眺めて、満足したようだった
ついに話が進んだ。そろそろあのラグビーの話に入ったはずだ
その少年に合わせて、少女も頭の中で内容を読み返していた
たしか青春ドラマを見てた宗介とかなめが、林水センパイに呼び出されて、ラグビーの協力を受けることになるのだ
もうそこまではいっただろうか。
そしてかなめと宗介は、ラグビー部の部室を訪ねるのだ。そこで本当は心根が優しい部員ばかりで、ラグビーに向いてないことを知り、落胆し、宗介が鍛えなおそうとする
笑えるポイントはすでに一杯あるのだが、大事なのはそこからだ
宗介の似つかわしくない罵声でジャブを食らいつつ、例の試合の場面になる
そこで彼らは叫ぶのだ。ガンホー、と
ほとんどの読者は、そこで耐え切れずに笑い声を上げる。少女もその一人だ
早くそこまで読んで、と少女はページをめくることも忘れ、少年の顔をじっと見つめていた

その時だった。
少年はまた小さくぷっと笑ったのだが、その後に小指をぴんと立てて、その小指の爪を眺めたのだ
なんの仕草だろう、と首をかしげたが、すぐにはっとした
思い当たることがあった
かなめたちがラグビー部室に訪れた時に、ラグビー部員の郷田達が怯えるのだ
その時の描写はこうだったはずだ
『「どうしたの、郷田くん?」
「い、いえ。クモがいたものだから、ついびっくりして……」
見ると、小指の爪ほどのサイズのクモが、壁をさかさかと這っていた』
このシーンに笑ってから、小指の爪ほどのサイズのクモを思い描くために、ああして自分の小指の爪を眺めているのだろう
その時の場面を想像してみるというのはよくあることだ

だがそこで、ふと少年と目が合ってしまった。
少年と目が合うのはこれが初めてだった。少女はどきりとして、あ、と声に出してしまった
少女が突然の視線に戸惑って恥ずかしくなったが、それ以上に恥ずかしくなったのは少年の方だった
少年は、ぴんと小指を伸ばしていたからだ。それは女性がやるような手の形になってしまっていた。
それを見られたと思い、少年はかあっと顔を赤くした
そして少女が「あ」と言ったのもいけなかった。それははっきりと少年の耳に入り、いっそう羞恥をかきたてた
少年はすぐに本を閉じて、鞄にしまった
そして少女と目を合わせないようにして、一目散に図書館を出て行ってしまった

「…………」
その展開に、少女は口を閉じることも忘れてしまっていた
もうちょっとだったのに。こんな肩透かしってアリ?
だがしまったなと思う一方、心のどこかでまた来るかなと期待していた
そして次にくる時は、何巻目を持ってくるだろうか。その時には、カメラを忘れないようにしよう。わずかな可能性を期待して、そう決意していた

今日は楽しかったな
その時の少女の表情には、うっすらと笑みが浮かんでいたのだった





戦争男の光と影

作:アリマサ
mini.052

今日も人を殺してきた

東京の夜の街中で、汚く錆びた橋に宗介がもたれていた
周りのネオンがうるさいくらいに点灯しては、決められた動きを繰り返している
もう仕事は終わって、帰ってきたところだった。しかし、まだ血のニオイが取れていない
こればかりは、ただ水で洗い流してもしばらく消えないのだ。
このニオイを纏ったまま、セーフハウスには帰りたくなかった。
どこかでニオイが落ちるのをただ待たなければならない

どこにいく当ても無いまま、ただ歩き出した。
ふと視界に、白い粒がちらついてきた。雪だった。寒いと思っていたが、こういう現象がさらにそれを実感させる
どこか、知り合いの居ない所に身を置こう。
宗介は建物の中に入ることを決め、まず酒場にしようと思った。酒を飲む気はないが、あの空間は、なぜか俺のような奴が息つけそうな気がした
すると、狭い歩道だというのに、十代後半と思われる男女四人の若者達が座って談笑していた
彼らは大口を開けて談笑していた。周りの迷惑さにはまったく気にかけてないようだった
自分さえ楽しければいいという傲慢さが体中から溢れてるようだった
通行人たちはそれを注意しなかった。最初からその歩道はなかったかのように、少し遠回りして歩いている
高級な服で着飾った中年女性も、くたびれた中年サラリーマンも、諦めているのだろう。それぞれ自分の世界をつくって夜の街を歩いていた
宗介は、かまわずその狭い歩道を通り抜けようとした。前に進むために、座り込んでいた若者達のわずかな隙間に足を踏み置いて行こうとした
だが、それに若者達はぴたりとしゃべるのを止めて、露骨に嫌な顔をした
真っ向から文句を口に出すことはなかった。だが、若者の男が座った体勢のまま、ぺっと唾を足に吐きかけてきた
それが宗介の靴付近のズボンの裾に付着すると、若者の男はひひっと笑った
傍に居た女が可笑しそうに拍手して笑う。もう一方の男がこっちに中指を立てていた
宗介は、ぴたりと足を止めて、若者達を振り返った
「あんだよ?」
宗介の視線に、若者達が悪態をついてくる。だが、宗介はそれを無視して、再び歩き出した。

そして先にあるバーに入る
狭い店だった。客の入れは悪いらしい。宗介以外には二人ほどしかいなかった
宗介はカウンターの席に座った。バーテンが注文は、と聞いてきたが、それを無視した
すると顔をしかめてきたので、仕方なく軽いおつまみ程度の食事を頼んだ。
あまり美味くはなかった。それを食べ終えてから、カウンターに肘をのせて、目を伏せた

ここでは、銃弾の音は飛び交っていない。煙もなく、土埃もない。
しかし、俺の身体には、この平和な国にふさわしくないほどに、血のニオイがこびりついていた
敵兵は、こっちに向かってなにかを叫んでいた。しかし、それを聞き取ることはできなかった
ただ、銃口をそいつに向けて引き金を引くだけだ
そしてその男の額に穴が空き、血が噴出し、俺の顔に、服に、付着していく
見慣れた光景だった。任務のために、人を殺す。誰も咎めることはなかった。敬礼に敬礼で返せばいいだけだ
戦争地帯では、こことは違った人の表情ばかりが目に入ってくる。苦痛、我慢、憤懣、憎悪。
その表情を向けてくるのは、敵兵だけではない。そこにいた村人も、子供も、女性も。その目に悔し涙を溜めながら、なにかを叫ぶのだ
流れ弾だとか、爆発による被害だとか、そんなキーワードを織り交ぜながら。
年端もいかない子供は、挨拶の言葉は知らなくても悪態の言葉は知っていた。こっちに叫ぶために。訴えるためにだ。
しかし、俺はそれを無視する。任務だから仕方ない。答えるとしたらこれだけだ
いつだったか、仲間がつぶやいた。守ろうとしてる人に死ねと言われるのが嫌でたまらなくなり、泣きそうになるだとか。
俺も時々、なにを守ろうとしているのか分からなくなる。そして、なんのために戦っているのか。
だがそれを考えることはない。銃を持つ時は、なにも考えてはいけないのだ。人形のように、課せられた使命を果たすために、その手を、その足を、血に染めていく
そう。誰も責める者はいないのだから

その時だった。綺麗な音がバーの中に響いてきて、俺は思考を現実に戻した
視線を音に向けると、黒イスに掛けた男が、ヴァイオリンを弾いていた
いい音だと思った。楽器なのか、演奏者なのか分からなかったが、とにかくいいと思えた
目を閉じても、さきほどの光景は現れなかった。代わりに、メロディーが作り出す、心地のよい世界が見えてくるようだった
音楽心があるわけじゃないのに、その世界に身を任せたくなった。なにも考えず、ただ耳を傾け続けた
そこに、新しい客が入ってきた。それはさきほど道路に座り込んでいた男女四人の若者だった
こっちには気づいていないようだった。雪が降って寒くなり、たまたまここに入ってきたのだろうか。彼らはヴァイオリンに近い席に座っていく
俺はそれを無視し、また目を閉じた。
演奏者の指が弦を揺らし、曲を紡いでいく。ゆっくりとした音だった。しかしその一音一音が染み込んでくるようだった
だが、その美しい音色は、近くの男女の下卑た笑い声にかき消されてしまった
さっきの歩道の時のように、相変わらず自分だけの世界をつくって、馬鹿笑いをしていた
その騒ぎが苛々を募らせた。さっきの音とは違って、人を不快にさせる声だ
なんとかそれを無視しようと努めた。ヴァイオリンの音だけを拾おうと耳を傾ける
だが、微細なメロディは、はかなく近くの笑い声に消えてしまう
そして店も、演奏者も、それを注意しなかった。歩道の通行人と同じように、すでに諦めているようだった

さきほどまでの心地よさはすでに消えうせていた。もう我慢できなかった
立ち上がると、その男女四人のテーブルの前に来て、一言告げた。
「静かにしろ。音が聞こえない」
ぴたりと、若者達の動きが止まった。そして一人の男が、汚い目でこっちを見上げて、醜い顔をさらに醜く歪めた
すると別の男が、目の前の男と同様に顔を醜く歪めて、指差してきた
「あっ、てめえさっきの。なんか文句あんのかぁ?」
「黙ってろと言っている。貴様らの汚い声を聞きたくないんだ」
宗介の言葉に、目の前の男が青筋を立てて、胸倉を乱暴に掴み上げてきた
そして別の男が、手元のコップをこっちに投げつけて、水を掛けてくる
冷たい氷と水が、宗介の顔と髪を濡らした。その様を見て、女達が可笑しそうにけらけらと笑った
「てめえがここから消えな。バーカ」
目の前の男が、中指を突き立てて、もうひとつの手で宗介の胸をどんと押した
だが、宗介の身体は後退しなかった。あんな押しで、倒れるわけがない。
すると、押そうとした男が、仲間の手前で馬鹿にされたと思ったのか、今度は握りこぶしをつくって頬めがけて殴りかかってきた
俺はそれを上半身をわずかに反らすことで簡単に避けてみせた。さらに空を切った男の拳を取り、ぐいっと背中に回す
腕をねじ上げられて、男が小さな悲鳴を上げた
それを見て、仲間の男ががたっと席を立ち、グラスを振り上げる
だが宗介は、そのグラスごと、素早く片足で蹴り倒した
男は派手に後ろに転がって、テーブルをなぎ倒していく
女達が悲鳴を上げた。汚い悲鳴だった。
それを無視して、ねじり上げてた腕を、さらにひねっていく
「痛えっ。ちょっ、折れるって!」
このまま折ってやってもいいと思った。こんな愚図がどうなろうが知ったことか
俺はなんのために戦っているんだ。こいつらを守ってやるためか?
しかし敵兵よりも、守るべきこいつらのほうが生きる価値も無いように思えた
他人の足を引っ張って邪魔するだけの、迷惑なだけのこの存在が。
「やめろって。やめてくれえっ」
俺の持つ殺人技術の一つを実行するだけで、この男はあっさりと死ぬだろう。
腰にあるナイフを、この後ろ首に突きたててやればいい。それとも腕を折って、首もへし折ろうか。
「悪かった。頼む、やめてくれっ」
男の懇願するその声も、無性に腹立たしい。いちいち態度を変えて、自分の身を守ろうとしてるだけだ。自分勝手な存在だ。
胸の中に憎悪がうずまいている。そうだ。まず、こいつの腕を折ってしまおう
だがその時、別の視線に気づいた。
演奏してたヴァイオリンの男だった。そしてこっちに向けていたその目が、あの村人達と折り重なって見えた
カウンターのバーテンも同じ目をしていた。そこにいる誰もが、俺にあの目を向けていた
俺は手を離した。男が肩を押さえて、うずくまる
俺は店を出ることにした。適当に代金をカウンターの上に置いて、入り口に向かっていった
背後から、なにか叫んでるような気がしたが、俺は振り返らなかった

外に出ると、雪はやんでいた。
ただ、それ以外はなにも変わっていない。通行人は相変わらず寂しそうにそこを通っている
ふうっと息を吐いて、歩き出す。足はセーフハウスに向かっていた
俺はなんのために戦っているのか。そもそも、俺はなんのために生きているのか。
あの目を見るたびにそう思う。俺も、さっきの若者と同じなのだろうか。

セーフハウスに着くと、足を止めた。
そこに千鳥が居たからだ
この寒い外で、ずっと待っていたのだろうか。頬は赤く、肩にうっすらと雪が積もっていた
千鳥は、こっちに気づくと、近づいてきた
それを見て、思わず動揺してしまった。
血のニオイは取れてるのだろうか
そして、それを思って気づいた。俺はセーフハウスに血のニオイを持ち込みたくなかったんじゃない。千鳥にそれを気づかれるのが嫌だったのだ

「お帰り、ソースケ」
そして千鳥は、すっと手を差し伸べてきた。
俺はそれを握るのをためらった。この小さな手を握る資格がないように思えた。
だが、千鳥からぎゅっと俺の手を取って、握ってきた。じわりと暖かくなった
「帰ろう、ソースケ」
俺は、無言でうなずいていた

そうだ。
いくらでも俺の手が血に汚れてもいい。この小さな手を、汚させないためなら

ぎゅっと、俺は少し握る手に力を込めた