破滅への序曲

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破滅への序曲


千鳥の研修終了まで、あと二日を切った

クルツが抜けた分の人員は、千鳥が研修終了でいなくなるのと同時に、補充するのだそうだ

それまで、泉川署交番は、宗介と千鳥だけだった



(あと、二日かあ……)

その日の午後、千鳥は交番の外を眺めていた

あと二日で、千鳥の研修は終了し、その後は警視庁で勤めることになる

階級もその時点で警部に昇格し、それからの行動次第では、どんどんと上の役職に就くこともできる

それがエリート道の、いわゆるキャリア組だけに用意された道なのだ

千鳥は最初、研修なんて簡単にこなせるものと思っていた

今までに学んできた知識と持ち前の行動力で、こなせるものと思っていた

しかし、この交番での研修勤務は、予想以上の苦労の連続で、いろいろと自分を戒めるべき場面もあった

研修の経験は、間違いなく千鳥にとって、貴重なものとなっていたのだ



千鳥は、ちらりと、隣で書類仕事をこなしている相良先輩の顔を見やった

最初の頃は、無愛想で、非常識な人だと思っていた

そしてクルツという、軽薄で、仕事に無熱心に見える人と一緒の交番に派遣されて、どうなることかと思っていたが

だが、彼らは先輩として、たくさん大切なことを教えてくれた



(……明日は夜間勤務か)

そうなると、夕方まではお互い時間が空いていることになる

だったら、丁度いい

「あの、先輩……」

「なんだ?」

宗介は、仕事の手を止めて、こっちを向いてきた

「先輩はクラシック音楽って好きですか?」

「クラシック? まあ、嫌いではないぞ」

「だったら、明日の十時からのクラシックコンサートのチケットがあるんです。一緒に行きませんか?」

「……なぜ俺と?」

「私、明日一杯で研修が終了するんです。そうしたら、もうこの交番勤めから離れて、警視庁に行くことになるんです。今住んでいるアパートも出て、向こうの寮に移るんです」

すると、宗介がカレンダーを見やった

「ああ、もう九ヶ月たつのか」

「はい。それで、今までお世話になった先輩へのお礼として、クラシックコンサートでもどうかなと思いまして」

「……そうだな。夕方までには戻ってこられそうだしな」

「それじゃ、いいんですね」

「お礼として誘ってもらったなら、断るわけにもいかんだろう。また待ち合わせ時間とかを教えてくれ」

「はいっ」

よかった。これでチケットを用意した甲斐があったというものだ

クラシックコンサートは、聞く者を魅了させる。そしてストレスを吹き飛ばし、爽快感と高揚感をもらたすものだ

相良先輩だって、そのクラシックコンサートの前には酔いしれ、満足できることだろう

チケットは少々高かったが、まあこれもお世話になった恩返しと考えれば安いものだ



「そういえば、最近あの娘が顔を出さなくなったな」

あの娘とは、週に数回は顔を見せてくる女子高生、佐伯恵那のことだった

「そりゃあ、そろそろ受験シーズンですからね。佐伯さん、レベルの高いとこ狙ってるみたいです」

「ほう……」

たしかにあの娘なら、どの大学も狙えそうだ

「……佐伯さん、もう大丈夫みたいですね。受験に専念できてるみたいですから」

「そうだな」

クルツ・ウェーバーが泉川署交番を去ってから、恵那はひどく気落ちしていた

表情は明るくみせていたが、口数が減っていたのだ

交番に寄ってきて、真っ先に見つめるのが、クルツが使っていたデスクだった

まるで、またそこに、クルツが居ると期待するかのように。

しかし、クルツはあれから、一度もこの交番に顔を出すことはなかった

新しい部署で、新しい仕事を覚えるのに忙しいのだろう。

だが、恵那にとっては、ただ会えないという一日が、寂しかったのだった

「なぜ、急に元気が無くなったのか分からんが、どうやら吹っ切れたようだな」

恵那の気持ちにまったく気づいていなかった宗介は、恵那の気落ちを、ただの不調と思っているようだ

「受験という新しい目標を見つけたことで、吹っ切ったみたいですね。ああ、そういえば恵那さん、今日は顔を出すはずですよ」

「ほう」

「やっぱり何度かここに来ないと、意気込みが違うらしいんです」

「意気込み?」

「佐伯さん、将来は警察に入りたいと言ってるんですよ」

「なに?」

警察志望なんて、初耳だった

「あたしたちの働いてる姿を見てるうちに、憧れるようになったそうなんですよ」

「お、俺たちを見て、か?」

「なんか、照れちゃいますね。警官に憧れて入ったあたしが、もう憧れの対象にされてるなんて」

「まあ、どう感じるかは人それぞれだからな」

だが、そう言う宗介は、心なしか嬉しそうだった

大学に入り、その後警察に採用されれば、警察学校に一定期間入校することになる。

そこで厳しい教育・訓練を受け、その後、警察署で勤務することとなるのだ

その勤務先によっては、宗介やかなめたちと働くことができるようになるかもしれない

「もし、後輩として同じ署に来たら、先輩として指導してあげませんとね」

「まだ先の話だろう」

苦笑して、お茶をずずっとすすった

すると、そこで恵那が顔を出してきた

「あのう、こんにちは」

「こんにちわ、佐伯さん」

いつものように挨拶を交わす二人だったが、宗介だけは、じっと外を見渡していた

「…………」

そして立ち上がり、交番を出て、そこでしばらく辺りをうかがう

「相良先輩、どうしたんですか?」

「…………」

(妙だな)

佐伯恵那が来るとき、その近くで、また別の誰かの視線を感じたのだ

それはまるで、初めて佐伯がこの交番に駆け込んできた時の事件の様な、あの妙な視線だった

誰かが、佐伯の後を尾けていたのか?

あの時の事件では、その視線の正体は、鷲尾探偵の下手くそな尾行だった

だが、あれからもう五ヶ月近くたっている

今でもまだ、あの鷲尾とかいう探偵が尾行調査を続けているのか?

普通、探偵契約は一ヶ月くらいだ。

佐伯の父親が、一月ごとの調査報告を頼んでいたのだろうか?

(その辺りの事を、ちゃんと聞いておけばよかったな)

今は、佐伯恵那が署内に居るため、ここで鷲尾と連絡を取り合うわけにはいかない

まあ、またあとで確認しておけばいいことだ

とりあえず、今はもうなんの気配も感じないので、宗介は署内へと戻っていった

「どうしたんです、先輩?」

「いや、なんでもない」

さっさとイスに座り、仕事に戻った



「へえーっ、あの俳優さんってそんな豪華な誕生パーティやってるんだぁ」

すっかり千鳥と恵那は、いつもの雑談に入ってしまっていた

「金額も想像できないですよ。あ、そうだ。……あの、相良さん」

「ああ、なんだ?」

「クルツさんって、歳はいくつなんですか?」

その恵那の質問に、宗介は少し考えるように上を向いた

「たしか俺の一つ上だから、25だと思うぞ」

「25ですか……」

「ちょ、ちょっと待ってください」

急に千鳥が、二人の間に入ってきた

「どうした千鳥」

「クルツさんと1コ違いって……それじゃ相良先輩はいくつなんですか」

「24だが?」

「……私と同い年だったんですか」

「そうなのか」

「ああ、そうか。わたし、一年ほど留学してたから……私が警察に入るのが遅かっただけですね」

「留学してたのか」

「ええ。アメリカに一年ほど、ね。おかげで英語だけはペラペラですよ」

「それなら、外人からの相談役は全て千鳥に任せておけばよかったな」

「もう遅いですよ」

と、からかうように笑ってみせた

「しかし、なぜクルツの年を聞くんだ?」

「えっ? い、いえ。ちょ、ちょっと気になっただけです……」

その質問に戸惑って、恵那はかあっと赤くなった

(やっぱり気になるんでしょうねえ)

恵那は、いつの間にかクルツに好意を寄せるようになっていたのだ

それに気づいたのは、クルツがいなくなってからの恵那の様子からだが、今よく思い返してみれば、思い当たることが色々あったような気がする

そう、例えば、あの日もそうだったのではないか



バレンタインデーの日は、交番の前を通って登校していく女子生徒が、どことなく浮かれていた

「なんだかやけにテンション高いな」

それを感じ取っていた宗介が、不思議そうに首をかしげる

「そりゃおめえ、今日がバレンタインデーだからだろうよ」

椅子の上であぐらをかいていたクルツ・ウェーバーが、吐き捨てるように答えた

「ああ、もうそんな季節か」

「ちえっ、まるで気にしてませんみたいな言い方しやがってよぉ」

「クルツは気にしてるのか?」

「けっ。男ならよぉ、こう期待に胸を膨らませて一日中そわそわして落ち着かないもんさ。このイベントってな、告白ってのが高確率でついてくるんだぜ」

「…………」

「あっ、てめ。やめろよそういう目すんのはよ」

「いや、別に……」

「チョコかあ。甘くておいしいんだよなあ」

「……それ、わたしに催促してるんですか?」

同じ署内にいた女性警察官、千鳥かなめが、クルツたちのところに寄ってくる

「え? いやあ、そんなことねえよ」

だが、さきからやけに大きめな声でしゃべっているのだ

あからさまに、チョコを催促してきてるとしか思えない

そこで、千鳥は鞄から、用意していたチョコをクルツに手渡してきた

「……はい」

そのラッピングされたチョコに、クルツは拳高らかに喜んだ

「いやっほう! いやぁ、悪いなぁ。うぅっ、千鳥ちゃん、こんな可愛いチョコをきっちり用意してくれちゃって」

「ええ。義理は大切ですからね」

千鳥は、にっこりと、はっきりとそう告げてきた

「…………」

その言葉で、さっきとはうって変わって、落胆の色に染まった

「……義理、ねえ。ハハ……」

その梱包をはがすと、それをさらに強調したように、百円の板チョコが出てきた

「ふ、ふへへへ……」

クルツは涙を垂らしながら、その板チョコをバリバリとかじっていたのだった

「はい、相良先輩もどうぞ」

クルツとはまた違う梱包のチョコを、手渡しておく

「ああ、わざわざすまないな」

宗介は、クルツとはちがって、淡々とそのチョコを受け取った

「ちょ、ちょっと待て」

「なんだ?」

「なんかよぉ、ソースケのほうがちょい豪華な梱包に見えるんだよなぁ……」

「……そうか?」

クルツの典型的な赤いリボンに対し、宗介のは金色に輝くリボンだった。

「おい、中を見せてくれよ。オレのより高いんじゃねえの?」

なんとも醜い嫉妬だった。

それにしても、レディの前で贈り物を開けさせるとは……。

千鳥は、ただ苦笑いを浮かべていた

そして宗介のも梱包を解くと、百十円の板チョコだった

「……百十円か。……この十円の差って微妙だな」

うーんと思い悩むクルツだが、はっきりいって、宗介にはどうでもよかった

「こんにちは」

そこに、女子高生の佐伯恵那が、交番に寄ってきた

「お、恵那ちゃん、こんにちは」

「なんだか盛り上がってるみたいなんですけど、どうかしたんですか?」

「んーん、ちょっと義理チョコを渡してただけよ」

「あ、それなら……」

すると恵那は、学生鞄から、梱包された袋を宗介とクルツに渡してきた

「わたしからも、チョコです」

「ああ……」

「お、ありがと、恵那ちゃん」

クルツは、ありがたくその袋をもらって、にっこりとお礼を言った

だが、それだけで、さっきみたいにガッツポーズをとったりはしなかった

「どうした、クルツ。チョコをもらえたというのに、舞い上がらないんだな」

「ふ。分かってるんだよ。オレがもらえるチョコはすべてが義理だってな」

その袋の中は、いくつものチョコボールが入ってた

さすがに何回も同じことを言われてこたえたのだろう、もう早とちりして喜ぶのは控えるようになってしまっていた

「……何の話ですか?」

よく分からず、近くにいた千鳥に聞いてきた

「ちょっとね。義理っていろいろと複雑みたい」

そう苦笑すると、状況が飲み込めたようで、恵那はにっこりと笑って言った

「それじゃ、クルツさんのは本命ということにします」

「ハハ、ありがと恵那ちゃん。その恵那ちゃんの優しい気遣いには涙しちゃうなあ」

「……本当に泣いてるな」



あの時は、後から言い直したように聞こえてたけど。

ひょっとしたら、最初から本命だったのかもしれないな

まあ、いつからクルツくんにそういう感情を抱いていたのか分からないから、あくまでも推測なんだけど

あれ? もしかして、恵那ちゃんが警察に行くと決心したのって……

クルツさんに会いたいから? 

……まさかね

あまりに大胆な想像はやめて、現実に戻って、談笑を再開させる

すると、すっかり話しこんでいたせいで、もう遅い時刻になっていた

「あ、わたし今日はこれで帰りますね」

「はい。またね」

そうして出て行こうとした恵那を、宗介がまだ呼び止めた

「ひとつだけ、聞きたいことがあるんだが」

「はい?」

「……最近、そっちの生活に変化はないか?」

「え? 例えばどういうことですか?」

質問の意図が分からないようで、首をかしげていた

「例えば……そうだな、誰かから変わった手紙をもらったりとか……」

「なにもありませんけど……」

恵那は狼狽するでもなく、そう言い切った

どうやら、なにも恵那の生活状態に変化はないらしい

ならば、あの妙な視線は、ストーカーの線ではないな

これ以上、余計な詮索はかえって恵那を不安にさせるだけなので、適当に誤魔化しておいた

「それじゃあ、お仕事頑張ってください」

「はい、来てくれてありがとうね」

千鳥がバイバイして交番から見送ると、宗介は署内の電話を使って、以前にもらった名刺に記入された鷲尾の事務所に連絡を取ってみた

しかし、コール音が鳴るだけで、誰も応対してこない

ちらりと時刻を見ると、もう七時を過ぎていた

「ちっ、もう閉めたのか」

探偵事務所も、商売事業だ。定時の五時を迎えて営業を終了し、事務所を閉めたのだろう

「仕方ないな。また明日に電話するか」

ただ、確認をするだけだ

それで、定期の契約として、いまだに尾行を続けてると確認が取れれば、この件は終わりだ



「先輩」

「なんだ?」

「明日のことですけど、九時に調布駅で会うことにしませんか?」

「ああ、クラシックコンサートだったな」

「そうですよ。忘れないでくださいよ?」

「分かった。明日の九時に、調布駅前だな」

「はい!」

この元気な返事が聞けるのも、明日で最後か

明日は勤務時間の夕方までの空いてる時間に、千鳥から、研修期間でお世話になったお礼として、クラシックコンサートに誘われた

宗介は、クラシックコンサートに行った事は一度もない

それを生演奏で聞ける機会を得たのだから、感謝するべきなんだろうな

まあ、明日は素直にクラシックコンサートを楽しむとしよう



これが千鳥といる、最後の日となるのだから




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