破滅への序曲

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破滅への序曲 2


翌日、千鳥とクラシックコンサートを見に行くために、朝早く起きて、服を着替えた

そして準備ができると、まずアパートを出る前に、また鷲尾探偵事務所に電話をかけておく

すると、コール音が五回鳴ったところで、機械的な声が流れてきた

『こちら鷲尾探偵事務所です。申し訳ありませんが、本日は休業となっておりまして、用件がある方はピーッという発信音の後に……』

よりによって、休業日か。

探偵事務所なんだから、年中無休でやればいいのに。

仕方ないので、『確認したい旨があるため、連絡を取りたい』と述べて、連絡先としてこっちの携帯番号を告げておいた

「さて、行くか」

待ち合わせ先の調布駅に着くと、すでに千鳥が待っていた

行く先がクラシックコンサートなだけに、二人ともきちんとした身なりのいい服装だった

そして二人は電車に乗って、コンサート会場の最寄の駅へと向かっていく



千鳥の誘ったクラシックコンサート会場は、典型的なシューボックス型だった

シューボックス型とは、音響性能が良いことが大きな特長で、反射音(初期反射音)が豊富に、また、客席一帯にまんべんなく得られること、天井が高いことにより豊かな残響音が得られることが利点となっているのだ

「豪華な会場だな」

一足踏み入れて、そのホール内の圧倒的なスケールに飲み込まれそうになった

客席は少なめだが、その内装や天井の高さが凄いのだ

「わたしもクラシックコンサートは初めてだったんですけど。ほんとに凄いですね」

コンサートホールは、音の響きの質と量を追及する

音響効果をいかに引き出すかで、価値がまったく変わってしまうのだ

そのために、天井や壁だけでなく、椅子の構造も重要な役割を果たす。

布張りの椅子は音を吸収するが、逆に背もたれ部分はわずかながら反射板の役割も果たす

このように細部にいたるまで、ホール内の設備には検討が続けられるのだ

そして当然、客席全体の空間の雰囲気も重要となる

これらを配慮した会場は、来場した者を虜にしてしまうのだ

「それじゃ、席に行きましょう」

指定された席を探し、そこに腰をかける

真ん中より少し後ろ辺りの席だったが、割と見やすい位置だった

「もうすぐ開演か」

手元のプログラムを眺めて、これからの演奏内容を確認する

有名な曲もあるし、これは楽しめそうだな



時間が来ると、客席側の照明が薄暗くなって、前の演奏舞台が幕を開けた

プロローグとして、軽い演奏から入ってくる

クラシック音楽には、一般的に管楽器、弦楽器、打楽器と分類されることが多い

このクラシックコンサートのメインは、弦鳴楽器であるヴァイオリン、ハープ、ピアノだった

そしてこれらを中心に、様々な音楽が奏でられていく

それはまだ序盤だというのに、一気にクラシックの世界に引きずり込まれてしまった

目を瞑って耳を傾けたり、演奏者の動きを見て感じたり、それは生でしか味わえないものだった

それは数分、数時間とたっても、決して飽きさせることのない、素晴らしい演奏の数々だった



そして何曲か終わると、ここで放送が流れてきた

『それではこれから、プログラムの通り、特別演奏に入ります』

その放送を聞いて、改めてプログラムを見ると、たしかにゲストによる特別演奏が入っていた

「へえ、なんだろ」

『ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックの首席者がいらっしゃいました。その方による特別演奏が行なわれます』

「ろ、ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックの首席……。凄い……」

「千鳥。そのロイヤルなんとかって、何だ?」

小声で聞いた宗介に、千鳥がぼそぼそと説明してくれた

「ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックといえば、ロンドンの有名な音楽学校ですよ」

「ロンドン……。イギリスか」

ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックとは、1878年創立の英国最古の伝統ある音楽名門校のことだ。

英国の一流紙が最高の評価を与えたとも言われる、有名な音楽院なのだ

そんなところの首席者の演奏が聞けるなんて、幸運としか言いようがない

『それでは紹介します。ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックから来ていただいた、レナード・シュトラウスです』

そう紹介されて、舞台脇からヴァイオリンを持って出てきたのは、綺麗な銀髪の少年だった

これには、客席がどよめいた

まだ若造ともいえるこの年で、有名学校の首席を取ったということになるのだ

彼はなめらかな白い肌に、波打つような銀色の髪。

そしてなにより、青みがかかった灰色の瞳。いや、銀色の瞳といったほうがいいだろう

その瞳が、とても印象的だった

「綺麗な眼……。なんだか、吸い込まれそう」

貴公子たる風貌と、綺麗な瞳に、千鳥は思わずそう言ってしまっていた

「…………」

だが、なぜか宗介だけは、眉根にしわ寄せて、むっつりと押し黙っていた



放送を伝っての、いくらかの紹介が流れ終えると、他の演奏者達が舞台から退散していく

そして観客からの拍手もおさまると、レナードはヴァイオリンをあごで挟み、弓を構えた

「へえ、ソロ演奏なんだ……」

この舞台で、ソロを任せられるとは、よほどの実力者なのだろう

そしてそれを裏打ちするように、そのヴァイオリンから奏でられる演奏は、また次元の違った、美しい音色だった

正確で丁寧な弓使いと、それによってかもしだされる柔らかい音色が、客席を包み込む

その音色の気持ちよさに、客席から吐息が漏れてしまうほどだ

それは他の観客も同じようで、うっとりと、その演奏に酔いしれてしまっていた

「…………」

だが、ここでいきなり、宗介が立ち上がった

「せ、先輩? どうしたんですか?」

「ここを出よう」

「……え?」

まだ演奏の途中ですよ、と言おうとしたが、宗介はもう出口に向かってしまった

「ちょ、ちょっと……」

仕方なく、千鳥もその後に続いて、強引にホールを出た



「先輩! いったいどうしたんですか? まだ途中だったのに……」

「……すまんな」

なぜ席を立ったのか、それは宗介自身にも分からなかった

だが、なぜか苛立ってくるのだ。

彼を見るだけで。彼の演奏を聴くだけで。

レナードという男なんて知らないはずなのに、無性に苛立ってきて、一秒でもあそこにいたくなかったのだ

「先輩……」

だが、理由はどうあれ、せっかくのクラシックコンサートを台無しにしてしまった

「……すまないな。せっかく誘ってくれたのに」

「いえ……」

それでも、千鳥は責めることはなかった。

予定のクラシックコンサートを途中で抜けてしまったせいで、まだ時間が残っている

「……食事にでも行くか」

「そうですね」

そして二人は、クラシックコンサートを途中で抜けて、そのまま食事の場所を探すことにしたのだった



コンサートホールでは、まだレナードが、指先を器用に、ヴァイオリンの音色を操っていく

すると、レナードはちらりとあたりを見回して、小さく笑った

(さあ、そろそろ奏でてもらうとしよう。君たちに捧げる最高の音色によって……)

レナードは、ヴァイオリンの音色に、密かにあるものを混ぜ始めた

指一本、弦一本、演奏自体は変えずに、少しずつ変化させていく

それは美しい音色とともに、観客席へと撒かれていった

その違和感に気づく者は、誰一人として、いなかった

すると、聞いていた観客の一人が、突然なんの脈絡もなく、隣の客の顔を殴りつけた

そのいきなりの暴力に、呻いて、床に沈む

すると、また別の観客が、前に座っている観客の首をぎいっと締めてきた

いきなりでその手を解くこともできず、強く締め上げられて、咳き込み、苦しみ、悶える

そしてまた別の観客が、暴力をふるい、また別の観客が悲鳴をあげつつも、なぜかその手がまた別の暴力に染めていく

まるで感染したように、その観客の暴走は館内全体に広まって、誰もが傷つけあい、殺し合うようになった

それは異様な光景だった

さっきまで音楽に酔いしれていた観客達が、急に狂気の殺し合いを始めたのだ

それは女性でさえも、同じだった。誰一人、悲鳴を上げる者はいても、そこから逃げようとはしなかった

全員が全員、所持してるものを使って刺したり、獣のように理性をなくし、殴り、締め、噛みついて、傷つけ合っているのだ

それによって外傷を負って出血しても、まるで音楽に踊らされるように、その行為は止まらなかった

三階の席の客たちには、殺し合うだけでなく、その前にあるバルコニーから身を乗り出し、自分から落ちて命を絶つ者もいた

そして館内の観客だけではない。舞台裏で働いていたスタッフや演奏者達もまた、なぜか自ら狂気となり、その身を血に染めていた

その乱狂の中、レナードだけは、ヴァイオリンを弾き続けていた

観客から聞こえてくる悲鳴と断末を楽しむように、ただ演奏を続けていたのだった



しばらくすると、その観客の数は、すでに半分以下に減っていた

体力のある者、有利な攻撃道具を持っていた者が、いまだに狂乱を続けている

そこで、レナードは弾いていた曲を変えた

「さあ、第二幕といこう」

さっきまでと違って、激しく弦を鳴らす

高音と重低音がそれぞれ交互に、アップテンポしていく

すると、それまで狂乱に溺れていた生存者たちが、ぴたりと暴力をとめた

そのかわり、その手に持っていた凶器の先を自分に向けると、なんのためらいもなく、それをノドに突き刺した

凶器を持っていない人は、自分で首を絞めて窒息に陥ったり、椅子の堅い部分に自ら頭をぶつけ、肉が裂け、鮮血が噴き出しても、その動作を続けて、自分の命を絶っていく

そうして数分で自らをも殺し、観客達はついに、誰も動かなくなった

レナードが演奏を終えた時、血で真っ赤に染まった床や椅子に身を沈め、みんな死に絶えてしまったのだった

「レナード様……」

そこで、さっきまではいなかった、黒服に身を包んだ男たちが舞台に入ってきた

その男達に、レナードはヴァイオリンを預けた

「実験は終わったよ」

「そのようですね」

レナードは、一度舞台の上から、客席を見回した

顔が裂け、服が裂かれ、首をもたげられ、赤く染まった客たちを眺めて、彼は微笑んだ

「後片付けは任せたよ、飛鷲(フェイジュウ)」

飛鷲という黒服の男は了解し、他の黒服の男達に指示を出していく

「何も残らないように、ね」

そう後付けして、レナードは舞台を下りていった

「分かりました。綺麗に処理いたします」

そう答えて、黒服の男たちは、死体を運び、舞台の処理に取り掛かっていった



そしてこの事件は、言葉どおり綺麗さっぱりと処理されて、永久に迷宮入りとなる




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