破滅への序曲 3宗介と千鳥は、駅前で高級レストランを見つけ、そこで食事をすることにした やはり最後の食事となるのだから、少しフンパツしたのだった 二人は黙々と、ただ運ばれてくる食事をご馳走していく もう時刻は昼過ぎとなっていた この食事が終われば、そろそろ最後の職務として、交番に戻らなければならない もうその職務で最後だというのに、なかなか会話が出てこなかった やっとで切り出せても、宗介が「ああ」だとか簡潔に言い済ましたりして、その後が続かないのだった (もう残り半日なのに……) 沈黙してる間にも、時間は流れていく。その一秒一秒が、惜しくてたまらなかった 「こちら、デザートになります」 ウェイターが、最後の一品を運んできた もう食事も終わろうとしている 「先輩は、デザートはやっぱり果物よりアイス派ですか?」 「……ああ」 またこれだ。少しは会話を続けようとは思わないのだろうか 仕方なく、そのデザートを食べようと、スプーンを手に取ると、ようやく宗介の方から、話題を切り出してきた 「……部屋はもう片付けてるのか?」 「あ、はい。向こうの寮に移してます」 明日からは警視庁通いになるので、千鳥は住まいを変えるのだ その引越しのために、ここ数日はドタバタしていたものだ しかし、すべての家財の整理を済ませ、そのダンボールの山は、引越し業者に頼んで、すでに向こうに運ばれている 今、あのアパートの部屋には、一日分の消費用品だけだった あの寂しい部屋にいると、どうしても向こうに移るという実感が沸いてくるものだ 「そうか。じゃあ、あとはその時間が来るのを待つだけだな」 「……そうですね」 もう、明日からはあの交番に行くことはないのだ。 朝早く起きて、近くをジョギングして体を鍛え、汗を流し、制服に着替えて、あのアパートを出て出勤する その九ヶ月が、もうすぐ終わろうとしている その間に、わたしが得たものはなんだろう 事務作業や、報告書の作り方。 交番に訪れてくる市民の苦情の対処、巡回連絡。 時には他の部署から、応援の要請が来て、それに積極的に参加した 警察に入れば事件に追われる毎日だといわれているが、意外とそうでもなかった 地域住民とのふれあいや、挨拶、電話処理といった日々が繰り返されるのがほとんどだった そういえば、地域課の主任務は、地域とのふれあいが大切だと教えられていたな 住民の一人である佐伯恵那も、あの事件以来顔を見せてくるようになったが、それだけではない あの交番には、他の住民も、会話のために訪れる人が多いのだ 良い交番というのは、地域住民に親しまれるものというが、それはクルツや宗介、そして千鳥が少しずつ築いてきたものだ 地域課の重要さが、とてもよく分かった気がする 「……頑張れよ」 「はい?」 「これからは、もっとハードになるぞ。覚えることは沢山だ。上の役職に就けば、その分背負う責任は重くなる。でも、千鳥ならやっていけるだろう。頑張れよ」 それは、先輩としての、最後のねぎらいだった 「はいっ」 そしてそれに、千鳥は力強く答えたのだった
食事を済ませて、二人は勤務に戻るために、まずアパートへと戻ることにした そして制服に着替え、別々に交番に向かう 交番に、千鳥と宗介が着いて、夕方になったことで、これからの夜間勤務の引継ぎを行なった それを済まして、自分のデスクに着く 「この椅子とも、お別れかあ」 最後と思うと、ただの金属椅子が愛しく見えてしまう 「おい、最後だからって気を抜くなよ」 「ちょっと浸ってみただけじゃないですか……」 ぷうっと文句を言ってから、いつもの報告書を取り、事務作業に入っていった その時、千鳥の携帯に呼び出し音が鳴った 「ああ、そっちか」 宗介は、鷲尾からの連絡だと思って、つい自分の携帯を手にとってしまっていた 「風間くんからですよ」 「刑事課の風間か? なんで千鳥がその番号を……」 「人脈は大事ですよ、先輩。刑事課だけでなく、他の部署の方とも連絡が取れるようにしてるんです」 「なるほど、情報網を自分なりに広げていたか」 部署手伝いをうまく生かしていたんだなと笑って、自分の仕事に戻っていった そして千鳥は、携帯を開いて耳に当てる 「はい、千鳥です」 すると、向こうの声が、なんだかやけに慌てていた 「……え? なに? よく聞こえない」 だが、それを聞きなおした千鳥の顔が、凍ったようにこわばった 「……え? あの。なんて……?」 その伝えてくる情報が信じられず、何度も聞き返す その声が、回数を重ねるごとに、弱々しくなっていた 「どうした、千鳥?」 「…………」 それに答える余裕もなく、ただ千鳥は口を震わせるだけだった 「……うそ……」 その事実を受け止められず、否定の言葉を口にする。だが、それは頭の中で何度も繰り返された 「どうしたんだ、千鳥」 そして、ようやく千鳥は、声を絞り出した 「佐伯さんが……」 その言葉に、ただならぬ事態を感じて、がたっと宗介が立ち上がった 「佐伯が、どうしたっ!」 「佐伯さんが……」 千鳥には、それ以上の言葉が、紡げなかった
佐伯宅は、赤いパトカーのランプと、現場を遮断する黄色の封鎖テープで囲まれていた その封鎖テープの外側で見張っている警察官に事情を話し、宗介と千鳥は、佐伯の家の中に入っていった 家はそれほど広くもなく、2LDKと、標準的だった すると玄関横の浴槽扉から、なにやら床に、赤い線が引かれていた その赤い線は、真ん中のリビングのじゅうたんの上にまで続いており、そこは水たまりのように広がっている だが、その水たまりからさらに線を引くように、奥の部屋にまで続いていた そしてその奥の部屋に行くと、その壁に佐伯恵那がもたれていた 上半身を壁にあずける形で、あおむけに寝転んでいた 恵那の視線は床下に落ち、衣類が刃物で切られたように、破かれていた 白いブラウスははだけていて、その肌に十ヶ所近い傷が刻まれて、鮮血で染まっていた 一番ひどいのは、横腹で、えぐられるように裂かれていて、内蔵がその傷から垂れていた 佐伯恵那は――死んでいた 「――っ!」 その目に映っているものが、信じられなかった 目の前にいる佐伯恵那は、うつむいたまま、動かない そして吐血したのだろう、口の下が真っ赤になっていた 「…………」 その姿を見て、ドクン、ドクンと嫌な鼓動が、宗介の胸を突いてくる 切り裂かれた肌。無数の刺し痕。えぐられた肉。 『やめて、ソウスケ』 あの言葉が、いきなり頭の中に聞こえてきた 「……っ!」 とっさに宗介は、自分の手のひらを見た だが、その手は、真っ赤には染まっていなかった 「…………」
すると、愕然とその恵那の姿を見つめていた千鳥たちを、現場の刑事たちがたしなめてきた 「おいおい、あんたら地域課のモンでしょ。そんなとこにいないで、外で人払いを頼むよ」 だが、それでも動揺して動けない二人を見て、刑事は舌打ちした その間にも鑑識が、恵那に向けてカメラのフラッシュを焚き、まわりを検証していた 「なあ、そんなとこ突っ立ってられると邪魔なんだけどさ」 ぐいっと宗介たちを外に押し出そうとして、宗介がその手を跳ね除け、むんずと刑事の肩を掴んだ 「これは、どういうことなんだっ!」 聞くというより、怒鳴っていたその気迫に押されてか、刑事はぽりぽりと頭をかいて、肩をすくめた 「どうもこうも、こりゃコロシだね。見ろよ。あのホトケさん、無残なもんだ」 腹が大きく裂かれ、内蔵がはみ出たその遺体は、グロテスクの類に入るものだった 「玄関の鍵が壊されてた。ねじ曲げられてて、ありゃ強引にこじ開けたって感じだ」 「強引に? ……強盗ですか?」 「……ゴミ箱の中に、これがあった」 ビニール袋に入れられていたそれは、手紙だった 「なんですか?」 「中の文面は、半ば脅迫まがいの恋文だよ」 「脅迫……?」 「ああ。どう読んでも独りよがりの、押し付けモンだ。つまり、ストーカーってやつだな」 「……バカなっ!」 昨日、俺は佐伯に、こういう類のものは届いてないかを聞いたんだ そして恵那は、こんな手紙は来ていないと言っていた! だが、それがゴミ箱に捨てられていた。つまり、読んだから捨ててあったということだ だったら、なぜそれをあの時、俺に言ってくれなかった? 「だがな。妙な点があるんだ」 その刑事は、難しい顔をした 「……妙な点?」 「ああ。その類の手紙が、それ一通だけなんだ」 「……? それのなにが妙なのですか?」 他の手紙なんて、とっくに捨てて燃やされただけのことだろう だが、刑事はそれを否定した 「ゴミの日は、明後日だ。そして前のゴミの日は、四日以上も空いている。だが、ゴミ箱にも、周辺のゴミにも、似たような手紙は検出されてない」 そして、刑事は封筒のほうの消印を見せてきた 「消印は昨日だ。ここにあるという以上、届いたのも早くて昨日ということになる」 「昨日……」 その日に、手紙の有無を聞いたのだ 「さらに、この被害者の部屋にも、手紙以外のそれらしきモノがない」 「つまり……どういうことなんですか」 「私は、ストーカー犯罪には何件も関わってきた。そしてこういう手紙は、ほとんど毎日送られてくるもんだ。だが、手紙はこの一通しかない。つまり、この手紙が、ストーカー行為としての、一通目としか考えられんのだよ」 「――!」 消印は昨日だった。それならば、届くのは早くて、昨日の昼以降になる。 あのとき聞いたとき、恵那は学校の帰りから、直接交番に寄ってきたのだ そうだとすると、そのストーカーまがいの手紙は、帰ってから初めて目を通したということになる それならば、あの時恵那がそう答えたのは、当然なのだ あの日帰ってから、初めてストーカー行為に合ったのだ 「だが、それだと妙なんだ」 「どういうことなんですっ」 「ストーカー犯罪というのは、まず初期症状として、こういった手紙の類や電話をかけて、自分をアピールしたり、怖がらせたりするもんだ。それこそ嫌というほどの日数をかけてな」 刑事は、その手紙を、軽く振ってみた 「そう、何日も似たような行為を繰り返して、それから突然暴走するんだ。だが、この事件は違う。もう、暴走してるんだよ」 その手紙の入ったビニールを、鑑識の一人に渡しておいた 「まだ、たったの一日だ。手紙もたったの一通。そう、一日しか立っていないのに、いきなりこんな殺人犯罪に手を染めた」 刑事は、その恵那の遺体の横でかがみこんだ 「この刺し傷、数十ヶ所もあるそうだ。普通、刺殺の場合、数回で動転し、そこで刺す気力を失うんだ。ところが犯人は、その手を止めることなく、こんなに刺してやがる」 「……っ」 「犯人は、ストーカーとはまた別の人物の仕業か。そうでなければ、よほどの異常者だよ」 「…………」 なんてことだ なぜ俺は、鷲尾への確認を、電話だけで済ませたんだ なぜ、もっと徹底的にやらなかったんだ! 前のストーカーまがいの事件が、鷲尾の尾行術と分かり、あっさりと解決した そのことが、あの違和感に対して、心のどこかで、油断を生んでいたんだ!
すると刑事は、現場状況による犯罪分析を言い出してきた 「鍵が壊されてることから、一方的に押し入ってきたことは間違いない。そして血痕が浴槽から始まってることから、犯人は浴槽で第一の傷害を与えたんだろう」 浴槽の扉を開けると、その洗面所と浴槽の間の壁に、まだ生々しい血痕が残っていた 「ここに被害者がいたのは、洗面所でなにかをしていたか、もしくは男が入ってきたことで、そこに逃げ込んだかだな」 恵那は、気の弱い娘だった。いきなり男が押し入ってきたら、まず逃げるか隠れるだろう 「前頭部が、硬い鈍器で殴られた痕がある。浴槽で、その一撃目を食らったんだろう」 そして、浴槽の床にずっと続いている赤い線を指差した 「だが、それは致命傷にはならずに、被害者は必死に這っていくなりなんなりで、真ん中の部屋に逃げこんだ。だが、そこで捕まったんだろうな」 真ん中の部屋の、じゅうたんに残る、大きな赤い水たまりでかがみこんだ 「ここで、刃物で腹を切られたんだろう。それだけじゃなく、何ヶ所も……」 じゅうたんだけでなく、まわりの家具にも、血が飛び散っていた。 「かなり抵抗したんだろうな。ところどころでその痕が残ってる。衣服の破け方も、それによるものだろう」 「……っ」 宗介は、下唇を噛み、滲み出る怒りを抑えようとしていた 聞くたびに浮かび上がる、その時の惨事を。 家具の荒れようと、その付着した血痕の量を見るだけで、それが容易に想像できる。 気弱な恵那は、切りかかってくる男に怯え、必死に助けを請い、叫び、泣いていたのだろう だが、叫んでも誰も来てくれなかった。痛みだけが、身を突いてきた 「そこからなんとか逃げようとして、奥の部屋へと進んだんだろう。だが、うつぶせでなく、あおむけに壁にもたれたまま倒れてることから、侵入者は奥の部屋にまで入ってきたんだろうな」 あんなに痛い思いをして、それでも必死に逃げた奥の部屋にまで、そいつは詰めてきたというのか 「そこでどんな惨劇が起きたかははっきりせん。衣類の乱れからして乱暴されたのか、それともあの刺し傷を増やされたか……」 そんなこと、聞きたくもない それは聞かずとも、遺体の傷が、その悲惨さを充分に伝えていた
「警部。鑑識終わりました。遺体を運び出してもよろしいですか」 「ああ、頼む」 そして鑑識の二人が、遺体の恵那を持ち上げる 「おい、内蔵こぼれてるぞ」 「あ、いけね」 「おい! ホトケさんだぞ! 丁重に扱え」 刑事が注意して、ようやく遺体が運び出された 「家族は今こっちに向かってるところだ」 「ここにいないのですか?」 「ああ、母子家庭らしい。仕事に出てたから、勤務先に連絡を取って、ここに来るように言っておいた」 恵那はそれまで、ずっと一人だったのだ 助けを求めることもできず、切り裂かれ、この家で殺されてしまったのだ 「……ひどい」 それまでただ聞いていた千鳥が、そう漏らして、泣き出した 「どう……して。つい昨日、お話してたのに……。どうして……こんなっ……」 「…………」 「佐伯さんが、なにをしたの……? あんなにいい娘が、どうしてっ……」 「泣くな、千鳥」 「先輩……」 「泣いてる暇があったら、仕事するんだ。……外に行って、人払いをするぞ」 「先輩っ! だって、こんな……」 「……俺たちは警察だ。そして地域課の仕事は、ヤジ馬を見張ることだ」 宗介は、それきり黙って、家の外へと出て行った 「……っ」 千鳥もまた、こみあげてくる嗚咽をこらえて、宗介の横に立って、外を見張った (佐伯さん……。あんな……ひどい……) それでも涙があふれ出て、それを見られないよう、うつむいた すると、宗介の手が、震えているのが見えた ぎゅっと強く握り、ぶるぶると震えていた 彼の表情は見えないが、怒っているのはあきらかだった 「…………」 ただ、今は耐えて。自分にできる仕事を、やっておくんだ
外のヤジ馬たちは、なにが見たいのか、見張りの警察官の隙間を覗こうとしていた 「ねーっ、なんの事件ー?」 「それがよ、殺人事件らしいぜえ」 「ひえー、おっかねえなあ」 「死体見えっかなー?」 他人事のように騒ぐヤジ馬の言葉が、千鳥にはとても悔しかった |