終わりと始まり 3「先輩」 暗闇の中で響く懐かしい呼び名。 声をかけてきたのは、警官制服に身を包んだ女性、千鳥かなめ。 「先輩はやりすぎです」 いちいち呆れ顔で指摘してくる、物怖じしない女性だ。 彼女のショートカットが風に揺れる。そういえば、彼女の髪が腰にまでかかるほど伸びていたのはいつころだったか。 「怪盗レイスは犯罪者です。ちゃんと捕まえないと」 しつこい。その粘り強さと頑固さには、俺も舌を巻きそうになった。 「コイビトって……」 遊園地で、潜入捜査するときに、俺との組み合わせで文句を垂れる。 「あ、あれ乗ってみませんか?」 遊園地のアトラクションのひとつを指さして、子供のように裾を引っ張ってくる。 本当に仕事だということを忘れてるわけじゃないだろうな。 「あたしは、警察そのものを変えたいんです」 大胆な発想をするものだ。しかし、これこそ千鳥だ。 「先輩。あたし、もうすぐ本庁に行くんです」 そういえば研修期間もそろそろ終わりか。お前が騒がしいからあっという間だった。 「それはこっちの台詞です。いちいち犯罪者に手荒な真似して、抑えるのに苦労したのはこっちなんですから」 余計なお世話だ。 「ところで、コンサートチケットがあるんですけど、一緒にいきませんか」 さっきまで文句を言ってたくせに、いきなりなんなんだ。 「だって、もう離れるんですよ。あたし」 そうなるな。
「ソースケ」 本庁で再会したころの千鳥は、昔の活発さを失っていた。 千鳥らしくない。 「ミスリルでなら、あたしのしたいことができるかもしれないから」 そうだな。その強い信念を持ってれば、少しは実現するかもな。 「ここで寝てください」 膝枕。千鳥の膝に。 こいつは本気か? 俺をいくつだと思ってる。 「ほら、はやく」 強引な。こういうところがかなわない。しかし、温かい。 「クルツさんとお茶でもしてきませんか」 任務が終わってロビーでくつろいでると、よくそう話しかけてきたな。 「この映画、一緒に観ませんか。面白いらしいですよ」 セーフハウスでは映画ばかり観ていたな。字幕読めるのか? 「雰囲気だけ。でも次の任務はアメリカですから、そこのセーフハウスでは洋画が楽しめますよ」 やれやれ。 「食堂で新メニューが出たらしいですよ。さっそく食べにいきましょう」 食いしんぼめ。 「さっき、ちょっと噛んでましたよね。あはは」 笑うな。
千鳥。 千鳥、千鳥。
どうした、千鳥。どこへいった。
「ソースケは、帰ってくる気はないんですか?」
どこからか千鳥の声がした。しかし、姿が見えない。 どうしたんだ千鳥。
おぼろげに暗闇の向こうで千鳥の姿が浮かび上がる。 なんだ、そんなところにいたのか。
千鳥の姿が遠ざかっていく。 おい、千鳥。どこへいくんだ。
姿が遠のいて、暗闇に消えた。
千鳥……。
がつん。 後頭部に重い衝撃が来て、宗介は顔を上げた。 洋館の通り廊下。すぐ横には拳大くらいのコンクリートの破片が転がっていた。 これが頭上から降ってきて、ぶつかったのだろう。それで宗介は目が覚めたのだ。
「夢……?」 いつの間にか、夢を見ていたらしい。悪夢から解放された、本来誰もが見る夢。 不思議な感覚だった。目が覚めたときの気分が全然違う。 嫌な汗はかいてないし、嘔吐感もない。ただ少しぼんやりするだけの空虚感。 「千鳥……」 悪夢を見なくなったとたん、千鳥を夢で見るとは。 ふとつぶやいて、はっとした。 そういえば、千鳥を自分の手で刺すという悪夢を見せられたとき、レナードはなんと言っていた? 『大事な人を自分で失う夢』 千鳥、とは言ってなかった。大事な人、とだけ。それで千鳥が出てきてたということは……。 数秒、そのことを考えて、宗介はつい苦笑してしまった。 なにを今更。 ここに来る前に、千鳥に告白もされたというのに。 だというのに、俺は今更になって気づいてしまった。 俺の、千鳥に対する本当の気持ちに。 あまりに今更すぎて、呆れるのを通り越しておかしくなってしまう。
「千鳥」 もう一度彼女の名前を呼ぶ。 夢の中で、千鳥はころころと表情を変えていた。 笑ったり、怒ったり、泣いたり。その度に俺はなにかと振り回されてきたのだ。 横の柱に亀裂が走った。崩壊は速度を増してゆく。 このままここでじっとしていれば、俺は死ぬ。 そうなると、もう千鳥の顔を見られなくなる。 ――イヤだ。 これで終わりか。あれだけでは足りない。 もっと見たい。彼女の表情を、もっと傍で。 ――死にたくない。 今までとはまた別の感情がこみ上げてきた。 もっと千鳥の傍にいたい。もっと千鳥と色々なところへいきたい。千鳥と二人でのんびりと過ごしたい。 今までにない欲求が、不思議なほど溢れてくる。 そこでなぜか、両親の顔が瞼の裏に浮かび上がった。 悪夢では見られなかった、本来の両親の穏やかな表情。愛おしそうに息子を見つめる優しい目。 ――ああ。 幸せの家庭を過ごせたのはほんの数年だったが、今でも宗介はその頃の温もりを覚えている。 ――父さん。俺はあんたが築いたあの家庭に憧れていた。たった数年の短い間でも、幸せに満ちていたあの家庭を、俺も築きたいと思っている。 ――だから、我が儘を言わせてくれ。 ――俺は生きたい。
生きたい。そう願ってみたとたんに、なぜか体内の気力が充実してきた。不思議だったが、気分がいい。 ぼやけていた視界も、眠っていたおかげではっきりしていた。 身体はまだ鈍いが、立ち上がれそうだ。 レナードはいなかった。しかし建物の振動は続いているから、どこかでまだ暴れているんだろう。 貴様は一人で死ね。 俺は生き延びる。
まずはこのもうじき終わる洋館を抜け出すことだ。 ただの化け物となっただけのレナードは相手にする必要はない。 窓から見える外の景色の高さと、壁の形でおおまかに建物の全体像を頭に描く。ここはまだ三、四階くらいだな。 窓から飛び降りれば簡単だが、今の宗介の体力ではそれもできず、着地の衝撃に耐える自信がない。 手近な階段を見つけて下りなければ。 「うっ」 動くだけで激痛が全身を駆け巡る。 走れない。 だが動けないわけではない。どうにか重い身体を引きずって、廊下を進む。 壁が崩れて砂塵が酷い。灰色と黒の混ざった粉塵が、視界を狭める。 「う……げほっ」 粉塵を吸い込んでしまい、大きくむせた。思ったよりも状況が酷い。 ガシャアンと近くの窓ガラスが割れた。細かい破片がコンクリートの破片と混ざる。通り道がどんどん危険と化していく。 「くそ。どこだ、階段は」 奥へ。奥へと。 走れば数秒の距離が、長く感じる。 懸命に進んで、視界が晴れてくると、段差を持った通路があった。 「あそこか……」 そこに、大きな振動。ようやく見つけた階段の前に、獣のレナードがのそりとあらわれた。 「まだこんなところをうろうろと……」 レナードはこっちを向きもせず、天を見上げて吠えた。 あまりの大声に、耳鳴りがする。くらくらして、意識が遠のきそうだ。 もっとどこか遠いところでやってほしいものだ。今のレナードは、近所迷惑な暴走少年のようなものでしかない。 レナードを無視して、向こうの階段に歩み寄ろうとする。 しかしレナードが、また吠えて、拳を壁に叩きつけた。激しい振動とともに、壁に穴が空く。それだけではおさまらず、両拳をハンマーのように床に振り下ろした。 その衝撃で、宗介とレナードの間の廊下の床が抜け落ちた。横幅に広く、廊下にでかい穴が空く。その大きさは、助走をつけてジャンプしても、とても向こうに渡れるものではなかった。 「この野郎……」 退路を、凶悪な拳で叩き壊された。 これでは階段にたどり着けない。反対側の階段にまわるにしても、大きな迂回になってしまう。 宗介はレナードを睨んだ。彼は満足気に床の破片を握り砕いている。 こいつは邪魔者だ。 故意ではないにせよ、こいつの行動は俺が脱出するのに邪魔になっている。 そこで、なにか空気を切り裂く音がして、それがなにかを確かめる前に、しゃがんだ。 頭上をなにかが通り過ぎて、背後の壁にめりこんだ。 コンクリートの破片だった。 レナードがいきなり投げてきたのだ。彼はキャッキャッと猿のように手を叩いて笑っている。 こいつは排除しなきゃだめだ。 この獣をどうにかしないと、俺がこの島を悠長に脱出することもできない。 改めてこの獣と化したレナードに、殺意を抱く。 だが、そうした途端に、レナードの宗介を見る目が変わった。 動くのを止めて、ウウウとうなり声を上げる。 さっきまで宗介に関心がなかったはずなのに、いきなり警戒してきた。 そうか。 こいつは、獣なのだ。獣は相手の敵意を敏感に察知する。 しまった。考えずに殺意を抱いてしまった自分の失態を心の内で罵る。 さっきまでどうでもよかった獣が、これ以上ないくらいの脅威の存在に繰り上がってしまった。 レナードは身体を丸めて、いまにも飛びかかりそうな体勢にうつる。 宗介は床に溜まった砂塵をひっつかみ、大穴の向こうから跳躍してきたレナードに向けて振りまく。 それはうまく彼の目つぶしになった。目を開けられず、獣の叫びを上げて転がる。 宗介はその隙に、大穴に身を乗り出した。ちんたら反対の廊下を歩いては、レナードにすぐ追いつかれてやられてしまう。 一階下とは少し高さがあったが、ためらってる余裕はない。 穴から下に転がるように、急いで落ちる。着地の衝撃が、足から全身に激痛として伝っていく。 上で、またレナードが吠えた。宗介は急いで這うように、そこを移動する。 なんとかレナードの視界内からは逃れた。 しかし、これからどう太刀打ちする? 宗介は廊下から、長く伸びた廊下と、部屋へのドアが並ぶのを見やって黙考する。 ここも砂塵が酷い。視界が最悪なこの状況で、どうすればいい。 ……砂塵。 ふと、これに似た状況で使える策があったことを思い出す。 たしかここも無人島とか言ってたな。しかし、あのアマルガム本拠地の地下洞窟と違って、ここは生活感溢れている。 ここがレナードが普段の住まいにしているのは確かなのだろう。 さっき窓から見下ろした景色は、海一面だった。反対側は知らないが、なんとなくこの島は小さいのだろうと見当をつける。 無人島ということは、他に住民はいないのか。では、この洋館の家具や食料は島外から調達していることになる。 家具は一度運べばそれでいいが、食料類は定期的に補充せねばならない。 「よし……」 宗介はとりあえず、この洋館のキッチンへ向かってみた。
椿一成は死を覚悟した。突進してくる飛鴻の攻撃を避ける術がなかった。 しかし、一成との間に一つの影が割り込んできた。 「少し遅れたようだな」 一成はなんとか顔を上げる。視界がかすむ。おぼろげに映ったのは、黒人の男。 「く、クルーゾー隊長……」 ベルファンガン・クルーゾーがかばうようにして立ちはだかる。飛鴻は攻撃の手を止めて、観察するようにクルーゾーを一瞥する。 「喋るな。お前はここで休め」 喋りたくても、もう口が開かない。 「ハエ共の御大将といったところか」 一目でクルーゾーの実力を推し量ってか、飛鴻は冷静にそう言った。 「すまんな。ハエは汚いところに寄り付くものでね。ここは相当に汚れて腐っているようだ」 ビキキ、と飛鴻の額に青筋が浮く。 飛鴻は一成を葬ったのと同じ構えを取った。 逃げろ、隊長。そいつは普通じゃない。洗練され強化された強さの前に、流派は関係ないんだ。 声にできなくても、目でそれを伝えた。しかしクルーゾーは不敵に笑むだけで、退かなかった。 飛鴻がまたも床を蹴り、壁を蹴り、空間を最大利用した移動で詰め寄る。気を練り、それに催眠で強化された筋力を上乗せさせた拳を突き出す。 クルーゾーは動かなかった。動かなかったはずなのに、飛鴻の攻撃は彼をすり抜け、背後の壁を叩いた。 一成の目には、まるでクルーゾーが幽霊のようにすり抜けたようにしか映らなかった。ただ、当たる瞬間に陽炎のように一瞬だけ揺らめいたが。 「うまく避けたようだな。だが、防御一辺倒ではこの状況は打破できんぞ」 「やれやれ。お前も椿もただ荒っぽいだけの打撃止まりだな。お前たちはまだまだ気孔の真髄を知らんのか」 なぜか一成も括りにされて言われてしまった。見下された発言と知って、飛鴻はさらに憤慨する。 クルーゾーを隅に追い詰めて、横にも逃げにくい位置に陣取って、もう一度攻撃を仕掛ける。 クルーゾーはそれに立ち向かうように構えを前に突き出し、両の手のひらを飛鴻の胸に押し当てた。飛鴻の動きよりもさらに早く、それでいて静かな動きだった。 しかしそれは打撃になっていなかった。ただ、両の手のひらを飛鴻の胸に置いただけ。 「死ねッ」 構わずに飛鴻が攻撃を続けようと拳を突き出そうとして、身体が跳ねた。 「な、なんだ?」 飛鴻の足取りがふらつく。彼は胸を押さえるようにして、ごぽりと血を吐いた。 「お前たちの攻撃は、ただの打撃にすぎない。真の打撃とは……」 飛鴻の筋肉がぐにゃりと歪みだす。ぶちぶちと、なにかが折れていく音。骨ではないなにかが、彼の体内で次々と折れていく。 「体内の気の流れを変えること。すなわち、内からの破壊」 飛鴻の内臓が潰れていく音だった。筋肉の鎧に包まれたはずの飛鴻の身体は、脆い音をたてて内側から崩れていく。 「に、兄さん……」 飛鴻は赤い塊を吐き出した。どしゃりと倒れ、それきりで動かなくなった。 たった一撃で、クルーゾーは飛鴻を倒してみせた。 凄え。隊長の実力を目の当たりにして、一成は味方のはずの隊長に恐れを抱いてしまう。 それと同時に、更なる強さがあったことに、なぜか嬉しくなってしまっていた。 「サガラが連れて行かれたと報告があったが。もう見当たらんな。ともかくお前を船に連れ帰るぞ、椿」 椿の腕を首後ろにまわし、クルーゾーは歩き出した。
宗介はようやくキッチンを見つけ出した。そこからさらに奥に続くドアに寄り、中に入る。 そこの小さな部屋には、食料が何段にも積み重ねられ、木箱として並べられていた。 食料庫。宗介の読み通り、無人島であるがために、こういうのは多めに買い溜めしてあった。 まだ艶のある果実をひとつ手にとって、かじる。喉が潤って、旨みが脳を活性化させる。 それから、端に置かれていた袋を見つけて、中身を確認する。 「よし、あったぞ。これだけあれば……」 目的であった小麦粉の入った袋は、十を超えていた。他にも砂糖、調味料の袋を手に取る。 ついでにコショウ、赤色の果汁、トウガラシ、暗い色の果実も持っていく。それを入り口横にあった運搬用の台車に載せた。ついでに抱えていたちぎれた左腕を、野菜の包み紙でくるんで、一緒に載せる。 キッチンに戻って、引き出しの中をかき分ける。ライターが見つかって、それをポケットにねじこむ。野菜を束ねた紐をいくつかほどき取って、それも入れておいた。これで準備は整った。 「あとは、場所か」 宗介の策に必要なその場所は、密室がつくれること。大量の袋を載せた台車を引いて、キッチンを出る。そのとき、窓から見えた建物が、ちょうどいい条件を備えていた。 ここからほんの少しだけ離れた、小さな建物。作りはこの洋館と同じで、きっと洋館の『倉庫』か『離れ』だろう。 建物の振動がおさまっていた。レナードの姿は見当たらない。 警戒しつつ、台車を引く。反対側の階段から、落とさないようにゆっくりと傾けて、下りていく。簡単な作業なのだが、右腕だけではバランスを取るのが難しかった。 洋館の外に出ると、砂塵のない綺麗な空気が気持ちよかった。建物の方を振り返ると、中型くらいの煉瓦式洋館だった。レナードが暴れた影響か、西側が完全に崩れている。他も時間の問題で、少しずつ、しかし確実に失われつつあった。 目的の建物は、洋館の本館から十メートルほどしか離れていない。しかしそのために崩壊を受けておらず、大きさもちょうどよかった。 近づこうとすると、ふっと辺りが暗くなった。見上げてみると、黒い塊がこっちに向かってくる。 ドオン、と地面が揺れる。いつの間にか、進路を阻むようにレナードが現れ、こっちを睨んでいた。 こっちを見つけて、本館から飛び降りてきたのだろう。しかし、見つかるのが早すぎる。 「く……」 なんとしてもあの場所に行かなくてはならない。その前に見つかってしまったのは最悪だった。 レナードは狼のような唸り声を上げて、じりじりと詰めてくる。 宗介は袋をまさぐり、さっき食糧庫から拝借してきた粉を掴み取った。 充分な距離になった。レナードが腕を振り上げ、鋭い爪を振り下ろそうとする。 掴んでいた粉をレナードの鼻先に投げつけた。そのとたん、レナードは悲鳴を上げた。 投げたのはコショウとトウガラシの粉だった。獣になった分、嗅覚は人間の何倍も鋭くなっている。 目潰しよりもずっと効いたはずだった。 レナードがのたうっているうちに、台車を引いて、目的の建物の入り口にたどり着く。 鍵はかかっておらず、扉を押すとギィと簡単に開いた。すぐ先には一枚の壁と扉。そこを開けると、小さい空間があらわれた。 「うってつけだ」 壁は外観にそぐわず、防音処理が施されていた。中には何台ものスピーカーとイスが並び、壁に楽器がかけられていた。 簡易演奏場なのか知らないが、レナードが使用するための部屋だろう。この部屋なら密室が簡単につくれる。 宗介は台車から小麦粉の袋を下ろし、キッチンから拝借したはさみで開け、中身を辺りに振りまいた。 空になると、すぐに次の袋へ。持ってきた大量の袋を全て、この部屋にぶちまけていく。 部屋はたちまち粉だらけになり、空中に漂う。 気体中にある一定の濃度の粉塵が浮遊していると、火花などで引火して爆発を起こす現象がある。 粉塵爆発。 宗介の狙いはそれだった。あのレナードをここに誘い込み、部屋ごと爆発して吹き飛ばす。それが宗介の策だった。 袋が半分ほど減ったところでいったん止めて、ライターを取り出し、用意した紐と果実を組み合わせて罠をつくる。 一定時間が経つと、果実に突き刺した紐がライターの着火装置に巻き付き、絡んでこすられ、着火するという仕組みだ。 時限つきの着火装置を完成させると、部屋の中央にそれを取り付ける。 それからまた粉を振りまく作業に戻った。 二分で全ての作業を終えると、宗介は建物を出ようとする。だが、そこにレナードが飛び込んできた。 「うっ」 慌てて、宗介は近くの机の積み重なったところに隠れた。 算段では、宗介が出た後に、レナードを建物の中に誘い込んで爆発させるつもりだった。 しかし、宗介が出る前にレナードが入ってきてしまった。このまま爆発させてしまっては、宗介も巻き込まれてしまう。 なぜ、こうも早くこの場所がバレたのか。 とにかく、早く脱出しなければ。仕掛けた時間は約五分。それまでにレナードをこの部屋から出さずに、かつ自分だけ脱出できなければならない。 窓は無い。出入りは一箇所のみ。 もう一度近距離から、コショウ攻撃でも仕掛けるか。しかし、獣であるがゆえに、さっきよりもずっと警戒されていた。同じ手が二度も通用するだろうか。不意に動けない。 隠れたこの場所から入り口まで、走っても十秒。身体を引きずって移動すると二十五秒程。 一気に飛び出しても、絶対に捕まってしまう。 少しでいい。レナードの気を逸らして、その隙をつけば。 食糧庫からは、果実も拝借していた。その果実を、向こうの壁に向かって放り投げる。 ごつんとぶつかって、果実が転がる。レナードはその音に振り向く。だが、そっちに飛びついていこうとはしなかった。 「なにっ?」 音に惑わされない。なぜだ。 レナードはくんくんと獣のように前に伸びた鼻をひくつかせ、こっちの方向を向いて唸る。 そうか、ニオイで。 獣は視覚よりも嗅覚で狩りをする。敵と認識した宗介を、ニオイで追っていたのだ。 より最悪だった。ニオイは、とっさに誤魔化せない。そうなると、どれだけ巧妙に隠れていても、探り当てられてしまう。 実際、レナードの目はこっちにしか向けられていなかった。もうほとんど場所を嗅ぎつけられてしまっている。 万事休すか。もう策が尽きて、ぎゅっと抱えていたものを抱いた。 「……!」 抱えていたのは、ちぎれた自分の左腕。 ミスリルの復元力を信じて、ここまで持ってきていた自分の一部。 宗介は野菜の包みからそれを取り出す。 これは賭けだった。この左腕は、偽りの無い自分のニオイが染み付いている。 それを投げつけ、同時に自身も入り口に向かって駆け出せば。 レナードがどっちに飛びつくか、それはもう運だった。 自分の左腕を失うことに、もう躊躇はなかった。 もう時間が無い。着火装置の時間はすぐそこまで迫っている。 じり、とレナードが近寄ってくる。宗介は、左腕を遠くに、反対の向こうに投げた。 それと同時に姿勢を低くして、少しでも早く身体を引きずって入り口に駆け出した。 レナードが床を蹴って、一気に跳躍した。彼が飛びついたのは……ゆっくり弧を描いていく左腕だった。 一蹴りで左腕に追いつき、それを鋭い牙で噛みつく。がりがりと骨ごと噛み砕き、左腕は原型を失っていく。 左腕を飲み込むのと、宗介が部屋を出たのは同時だった。扉を後ろ手で閉め、転がるようにして少しでも離れる。一瞬、閃光が飛び、次の瞬間に轟音とともにその部屋は爆発した。 「うあっ」 爆風が背中に襲い掛かる。さらに壁の破片が降り注ぐ。転がり続けて熱から逃げる。 十数メートルも転がって、ようやく止まった。身体がきしむ。そのままの体勢で息を吸って、仰向けになった。 建物は完全に吹っ飛んでいた。粉塵が宙に舞って、黒煙が激しく上がる。中にいたレナードの姿はもう跡形も無い。 最後の脅威はようやく去ったのだ。 しかし勝利の余韻に浸る暇はない。まだ体力のあるうちに、船に乗り込んでこの島から脱出しなければ。 「う……」 右手をついて、身体を起こす。鉛のように重い。 あと少し。あと少しだ、頑張れ。 自分を励ますのも久しい。宗介は目元の血をぬぐい取って、立ち上がった。 右足に力が入らない。足を引きずるように、少しずつ、少しずつ島の岸に向かう。 背中がずきんと痛み、どしゃりと砂浜の上に倒れた。砂に埋もれていた木の板切れを引き寄せ、杖代わりにしてまた立ち上がる。 もう少し。もう少しだ。 時間をかけて、岸にたどりつく。しかし、覗き込んだその先には、なにもなかった。 「……!」 船が無い。船を停めるのに適した地形はここくらいのものだが、他のところにもあったのだろうか。それとも、ここには船では来なかったのか? いずれにしても、もう限界だった。 身体を支えていられず、そのまま突っ伏した。 もう動けない。今更、木を切っていかだを作るなんて体力はもうない。 最後の最後で、レナードにやられたな。 意識が朦朧とする。生への執念も、もう尽きかけていた。 指一本動かせない。 「ち……どり……」 宗介は抗う力をも失い、ゆっくりと目を閉じた。
身体が小刻みに揺れている。不規則なその揺れに、宗介は少しだけ目を見開いた。 「相良さん!」 なぜか、目の前にテッサの顔があった。彼女はこっちが目を開けたことに、ほっと表情を緩ませた。 「ここ……は?」 なぜか、喋れるほどに回復している。上半身は、包帯で巻かれていた。そして宗介は、そこで船の上に寝かされているのだとようやく気づいた。 モーターボートだ。屋根の無い十人程度の小さなボート。宗介はそこに寝かされていた。 「よかった、相良さん……」 起き上がろうとしたが、まったく身体が動かない。テッサが動こうとするのを制してきたので、大人しく頭の位置を元に戻した。 「どうして……?」 それには、同じ船に同乗していたクルーゾーが、こっちを覗き込むようにして答えた。 「お前とレナードの姿が見えなくて、身動きが取れなくなったところに、離れ島で爆発があったんでな。二人の姿がないのと、時期的に、その島だと判断して、こうして迎えにきたわけだ」 少しだけあごをあげて、視界を離れていく島に向ける。まだ例の洋館のところから黒煙が上がっていた。あれが宗介の居場所をみんなに伝えてくれたのだ。 「それでわざわざ……?」 この状況で、組織であれば見捨てる選択肢を取るものだ。しかしミスリルはそうしなかった。 「当然じゃないですか。わたしたちミスリルは、家族を見捨てるようなことはしません。それがミスリルなんです」 その目に涙を滲ませて、テッサが語る。温かい言葉だった。 「ところで、左腕はありますか? もしかしたら、まだつけられるかも……」 「粉々になった。あいつと一緒にな」 「あ……」 テッサは二の口が告げなくなった。 そこに、カリーニンが横にくる。 「サガラ」 カリーニンの指が、宗介の頬に触れる。 「よくやった」 宗介は、小さくあごを引く。 「だが……。左腕は残念だったな」 それには、宗介はゆっくりと微笑んだ。 「あなたと……同じになっただけのことです」 宗介の言葉に、カリーニンも微笑んだ。互いに右手の拳でこつん、と突き合わせる。 「う……っ」 急にむせた。咳き込んで、気だるくうなだれる。すごく喉が渇いている。 「み……ず……」 水の入った底の薄いコップが口元に寄せられる。だが、口がろくに動かせない。 すると誰かがコップの水をぐいっと飲んだ。そして、その口が宗介の唇に当てられる。 唇越しに、冷たい水が流れてきた。それをこくん、と飲み込むと、じわあっと潤いが広がっていく。 唇が離れ、その顔が上がる。長髪がさらりと流れた。 「ちど……り……?」 もう一度後ろを見やると、そこで千鳥が泣きじゃくっていた。 ああ。 また見れたな、千鳥のその顔。 二人の視線が、そこでぶつかった。 「……スケ」 「ち……ど……」 「ソースケぇ」 「ちどり」 互いに呼び合う。互いの無事を確かめるように、何度も。 他の人たちは気を遣ってか、距離を取る。 小さいボートの上で、二人は手を握った。 千鳥の温もりが伝わってくる。ようやく手に入れた、この距離。 言わなくては。伝えるんだ、俺の気持ちを。 「千鳥」 呼ばれて、千鳥はぐっと顔を近づけてきた。 「なんですか?」 「…………」 言葉がうまく出てこない。ただ一言で済むはずの言葉が、声にならない。 「……いや」 宗介は、それを口にするのをやめた。 なにを焦っているんだ、俺は。 なにも焦ることはない。もう、俺には『これから』がいくらでもあるのだ。 俺の先は、いくらでもある。焦る必要はもうないんだ。 あの言葉は、これからのためにとっておこう。 「千鳥。頼みがある」 「なんですか?」 「膝枕をしてくれないか」 「えっ?」 わがままを言うくらい、いいだろう? 「船板じゃ硬くて頭が痛い。膝枕を頼む」 「え、で、でも」 千鳥は顔を赤くして、おろおろと周囲を見回す。さっきは口移しなんて大胆なことをしたくせに、人目が気になるらしい。 しかし、意を決して、千鳥は宗介の頭をひざの上に乗せた。 柔らかな感触が心地よい。気持ちよすぎて、目を閉じたくなる。 そっと、千鳥の指が頭を優しく撫でた。 「寝て下さい。今は、ただ休んでください」 そうだな。すまないが、その言葉に甘えさせてもらおう。 宗介は目を閉じた。
ボートは、夕日を受けて進み続ける。 夢に苦しめられ、夢に救われた数奇な運命に翻弄された男の戦いは、ついに終わった。
宗介の立てる寝息は、安らかなものだった。 彼の寝顔は、とても幸せに満ち足りていたのだった。 |