終わりと始まり

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終わりと始まり 2


「うああああああああぁぁっ!」

 叫び声を上げたまま、宗介はがばっと跳ね起きた。

 視界が一転し、白い部屋のベッドの上にいた。あの暗い廊下ではない。

「……え?」

 どういうことだ。なにがどうなっている?

 宗介は汗びっしょりで、顔面は涙でぐちゃぐちゃになっていた。

 一つのカメラがじーっとこっちを向いている。そのカメラを撮っていたのはレナードだった。

「ふふふ、なかなかいい画が撮れた。思ったよりも最悪な寝覚めだったようだね」

 目覚め? ということは、さっきまでの事は……

「……夢?」

「そう。とびっきりの悪夢を催眠で見せてあげたのさ。『大事な人を自分で失う夢』という内容にしたけど、これがまたいい反応を見せてくれた」

「夢……」

 レナードの強力な催眠で、どうやら夢の中身を強制的に入れ替えられたらしい。

 どうりで、強い意志を持ってしても、催眠を破れなかったわけだ。夢の中では抗いようもない。それによく思い返してみれば、不自然な状況がいくつかあった。

 あれは夢だったのだ。

 周りを見回すと、ほとんど白で構成された小さな部屋だった。まわりには機械が並んでいて、コードがレナードの手元のカメラに繋がっている。

 千鳥が居ない。血にまみれて倒れた千鳥もまた、悪夢の中だけだった。

 自分の手で殺してしまったはずの千鳥……

 不意に夢の中の最悪な出来事を思い出し、横にひるがえって胃の中を全部吐きだした。頭がガンガンする。涙まみれのせいで鼻水が詰まって呼吸がうまくできない。

「おおっと。いい顔だね」

 こんな様を、レナードは嬉喜してカメラを構え直した。どうやら悪夢にうなされて苦しんでいた無様な姿を、ずっとカメラに記録していたらしい。

「この、クソ野郎ッ」

 腰後ろを探ると、隠しナイフがあった。その感触に違和感が走る。

 似たような状況に、動きが止まる。

「…………」

 よく見れば、またも拘束されていない。隠しナイフも健在だ。

 レナードがいること以外は、暗い廊下のときと同じだった。

「まさかこれも夢なのか……?」

「違うよ。今度はれっきとした現実さ。しかし、今の君はぼくに手出しはできない。束縛する必要がないんだ」

 宗介は一度ナイフを引き抜き、レナードに向けて投げつけようとした。しかし、腕が途中で動かない。

「なにをしても無駄さ。寝ている間に別に催眠をかけさせてもらったんだ」

「催眠だと?」

「『君はぼくを攻撃できない』。クルツ・ウェーバーにかけたのと同じやつだよ」

「――!」

 宗介にとって一番最悪な催眠だった。今更ながらに、飛鴻に捕まってしまった失態を悔やむ。

「まあもっとも、拘束なんかしなくても満足に動けないだろうけどね。痙攣がうるさそうだから微量の筋肉弛緩剤を使わせてもらったよ」

 それに加えて、ガウルンとの一戦で負った怪我はまだ完治してはいない。

 しかしそれを押してでも、宗介は決着をつけたかったのだ。

「まだしびれが残っているだろう。大人しく横になってなよ」

「これ以上、俺になにをさせる気だ」

「話をしたいんだよ。ぼくはなにも知らない人に真実を告げてあげるのが好きでね。ぼくは親切なんだよ」

「おせっかいとも言う」

「そうかも。その真実が深い絶望を与えるのなら、なおさら」

 くすりとレナードが微笑む。

「クルツ・ウェーバー」

「……お前が、あいつの名を呼ぶな」

「ずいぶんと君にとっても大事な人だったようだね。なんでも荒れてた時期に唯一心許せる人だったとか?」

 この悪魔は、どこまで調査しているのか。記録としての歴史だけでなく、人の歴史でさえも暴かれていく。

「その割には薄情な面もあるよね。クルツ・ウェーバーに佐伯恵那が殺されたことを告げてなかったそうじゃないか」

「――!」

 こいつは、まさか。

「おい。まさかそのことを、クルツに……」

「もちろん教えてあげたよ。だって可哀想じゃないか。なにも知らないんだもの」

 こいつは。

 こいつは、なんてことを伝えたのか。

 何度もそれを告げようとして、結局言えなかった事件。せめてそれは俺と千鳥だけで終わらせようとした悲劇。

 それなのに、クルツはこの男から知ってしまった。あのときの自分の判断に、激しい後悔が胸をえぐる。

 死ぬ間際に、それを聞かされたクルツの胸中は、もはや推し量れない。

 ――すまない、クルツ

 告げるのが怖かった。その代償がこんな形で返されてしまうなんて。

 宗介はそう失望していくのと同時に、胸の内に黒いもやもやしたものがうずきだす。

「んー、いい顔」

 レナードはまたカメラを構え直し、アングルを変えて近づいてくる。

 一歩、一歩。ゆっくりと近づいてくる。レナードの顔が近くなる度に、黒いもやが膨らんでいく。

「それじゃ、次はショーを披露してもらおうかな。もちろん役者は君で、演出内容は……」

 また一歩、寄ってきた。

「君にさきほど見せた悪夢を、今度は現実で再現してもらおうかな。どんな結末なのか、楽しみだよ」

「――!」

 千鳥を自分の手で殺したあの悪夢。それを強制的に再現させようというレナードの企み。

 それを実際に実行できるレナードの催眠力に戦慄し、そして一方では激しい怒りが沸き立った。

 こつ、とまた一歩近づく。その憎らしい顔面が、無防備に鼻先にまで近づけてきたところで。

 胸の内にうずくまっていた黒い塊が、そこではじけ飛んだ。

 次の瞬間、至近距離にまで近づいていたレナードの無防備な頬を、力一杯拳で殴りつけていた。

 レナードにとってあるはずのない攻撃を彼はまもとに食らい、後ろの機材にまで吹っ飛ばされた。

 機材が甲高い音を立てて、部品が割れる。ぶつかった振動で隣の棚も横に倒れた。

 レナードは倒れた体勢のまま、きょとんとした顔を向けてきた。

「……え?」

 レナードは殴られた頬を押さえ、驚愕に目をむいていた。なにが起きたのかまったく分からないとばかりに。

 さらに宗介は手元に落ちていた隠しナイフを拾い、レナードに向けて投げつけた。

 ナイフはレナードのふとももに深く突き刺さる。レナードが大きな悲鳴を上げた。

 宗介はもう一撃で仕留めれると確信する。しかしもう武器がない。近くの機材の割れた部品を手に取ろうと手を伸ばす。

 だがそこで身体に激痛が走った。ガウルンとの一戦で痛めた怪我が、ここで動きを鈍くさせる。

「な、なぜ……」

 狼狽するレナード。

 レナードの催眠術を破れるのは、ガウルンだけなのに。ウィスパードも存在するらしいが、それはこの男ではない。それなのに。

 宗介がその姿勢のままで激痛に耐えて、激しく息をついて、口を開く。

「俺は……幼少のあの日から、ずっと復讐という炎を胸に燃やし続けてきた。何年も、何十年もな」

 ぎろりとレナードに冷酷な目を向ける。憎悪を込めた眼光が、正面からレナードを見据えた。

「それを、たかだか数分の催眠術でかき消せると思うなよッ!」

「う……」

 宗介の放つ憎悪に、レナードが怯む。彼の身体が震えていた。

 宗介に恐怖を感じていた。全世界の誰もが、そして恐怖という感情までもが支配下にあると信じていたレナードが、すくんでしまっていた。

 宗介がベッドから転げ落ちるようにして、部品を掴み取った。床に着地する際に、痛んだ箇所がきしみ、歯を食いしばって耐える。

 割れた棒状の部品を、レナードに向けて投げつける。レナードは必死に足を引きずって、寸でのところでそれをかわす。そして這うようにして近いドアに向かう。

 立て続けに部品を放つが、それが届く前にレナードは部屋から抜け出ていった。

「くそ……」

 あと一息のところで逃げられた。しかし宗介はそれをすぐに追うよりも、自身の回復を優先させた。

 もう少しじっとしていれば、痺れも抜ける。奴を追ってトドメを刺すのはそれからでも遅くはない。

 苛立ちを押さえつつも、宗介は目を閉じて、その刻を待った。



「い、痛い。痛いぃ!」

 レナードが転がり込んだのは、一番近くにあった鏡のある部屋。足を懸命に引きずって、鏡の前に立つ。

 鏡に映った自身の瞳と目を合わせる。そうしてレナードの痛覚を麻痺させた。

 痛みが一瞬にして消える。だが、やられたという事実は消せない。

「くそっ、あいつめ。なんなんだよ。なんだってんだよ!」

 憤って、立ち上がろうとする。だが、がくりと膝が折れた。

「う……」

 宗介の放ったナイフで、筋肉の筋から切断されていた。痛覚がなくても、足がまともに機能しない。

「そ、そんな。なんでだよっ」

 完全に元に戻るわけではない。ただ痛みを誤魔化しているだけなのだ。それを分かっていても、レナードはこの状況を罵倒した。

 ここまで物事が思い通りに進まないことなど、レナードにとって最大の屈辱だった。

「ちくしょう、ちくしょうっ」

 この状況を打破する方法はただ一つ。より強力な強化催眠をかけること。

 だが、それを実行するには、覚悟が必要だった。できることなら使いたくない切り札。

「大丈夫。大丈夫だ。ぼくは父とは違う。ぼくは父を越えたんだ。ぼくは父の二の舞にはならない」

 自分に言い聞かせるように何度もつぶやいて、平静さを取り戻しにかかる。

 レナードはいったん呼吸を整えてから、鏡に向かった。

「制御できるように力を調整するんだ。ぼくならそれができる」

 この催眠に、かつてないほどの集中力をもって挑む。そしてそれは、レナードの身体に大きな変化をもたらした。



「よし……」

 宗介は腕を動かして、痺れが取れていることを確認する。

 割れた部品から、鋭利に尖った形状のものを探し出して、それを掴んで部屋を出る。

 廊下に出た。しかし、そこは明らかに侵入したアマルガムの本部とは違う場所だった。

 廊下に窓がついていた。そして窓の外から、海が一望できる。

「一体、ここは……?」

 アマルガムの本拠地は地下だったはず。だがここは地上で、海を見下ろせる位置にあった。

「ここは、ぼくの住処だよ」

 レナードの声に、宗介は身構えた。

「あの本拠地の離れ島でね。ここも無人島だから邪魔者は来ないよ。あの本拠地はオトリさ」

 声のしたほうに居たのは、体長がニメートルで薄い銀色の毛で全身を覆われた大男だった。口には牙に近いものが生えており、筋肉質なその体つきに凶暴性を増していた。

 狼男に近いその外見は、先程までのレナードの面影がほとんどない。

「まさか……」

 ふいに出撃前のカリーニンとの会話を思い出す。しかし、それとは違う気がした。

「改めて、ぼくの洋館にようこそ。そしてここで君を殺してやるよ」

 こいつ、理性を残している。まだ完全に化け物となったわけではなさそうだ。

 宗介はより厄介な状況になったと瞬時に判断した。

 レナードは自己催眠をかけて、化け物となったのだ。しかし、理性を残す程度に制御している。宗介はそう理解していた。

「君はいたぶって殺してやる。催眠でその身体を動けなくして、苦痛のループだ」

 レナードの目が怪しく光る。だがそれより早く宗介は目をそらし、反対側に駆けだした。

「くそっ」

 まともに立ち向かっても、対抗策はない。力の差は歴然で、手に持っている武器でも打破できない。

 背を向けて逃げ出す他ない。

 レナードは獣のように身体をまるめ、床に手足をついた。そこから一気に飛びかかる。距離があったにかかわらず、その差は一瞬で縮まった。

 宗介は奥の横階段に飛び込むようにして、レナードの突進をかわす。直後に振動が襲う。

 彼の爪は鋭利に伸びていて、それが階段横の壁に突き刺さっていた。壁に亀裂が走り、そこは新たな彼の足場となっていた。

 あれはもう怪力というレベルではない。食らったらそこでお終いだ。

 宗介は足を止めずに階段を駆け下りた。目指すべき場所に向かって、ひたすら走る。

 頭上で振動。上の階でレナードが暴れているらしい。しかしその揺れが、次第に近づいてくる。

「くそっ、間取りが分からん」

 目的の部屋の場所が見つからない。ここはレナードの自宅らしいので、わざわざ洋館内の地図はない。

 背後でうなり声がした。レナードが下りてきて、宗介と目が合った。

 彼の移動力では、たちまち追いつかれてしまう。宗介は仕方なしに目の前の部屋に飛び込む。

 その部屋は脱衣所を兼ねた浴室だった。目的の部屋ではなかったが、ここになら必要なものがある。

 急いで洗面所にかけつける。宗介の目的は、鏡を手に入れることだった。

「あった!」

 洗面所の鏡を手に取ろうと指でひっかける。だが、鏡は壁に貼り付けられて動かない。

「くそ、据え付け型か!」

 レナードが洗面所の扉を突き破ってきた。もはや一刻の猶予もない。

 手近にあったドライヤーを鏡に向けて投げつけた。

 ガシャンと音を立てて鏡が割れて、大小の破片が飛び散る。そのうちで大きめの破片を手に取る。

「遅いッ」

 鏡をレナードに向けようとしたが、その前に飛びかかってきたレナードに手首を掴まれた。

 べき、と嫌な音が脱衣室に響いた。鏡を持っていた左手が折られていた。

「うあああっ」

「ふふふ、痛いか」

 ぎらりとレナードの目が光る。宗介は反動をつけて、その顔面にヘッドバッドを食らわせた。

「ぐうっ」

 催眠に入るときの隙をつけいられて、レナードが獣の顔をしかめる。

「この……っ」

 ぶちりとなにかがちぎれた。同時に赤いものが視界の左端に映る。

 宗介の左腕がもぎとられていた。

 肩に近い位置から、左腕がない。乱暴にねじ切られた切り口から、激しく血が噴出していく。いとも簡単にちぎられた。

「おああああっ!」

 レナードは宗介のちぎれた左腕をつまんでいた。宗介はそれをどうにかするよりも、とにかく離れたかった。傷口を押さえ、ふらふらしながらも後ずさるように奥へ逃げる。

 レナードはちぎった左手を隅に放り投げて、逃げる宗介に飛びかかる。その瞬発力から逃れる術はなかった。

 両肩を掴まれ、そのまま勢いで奥の浴槽に押し倒される。浴槽には水が張ってあったようで、ぶつかった衝撃で小さくこぼれた。

 背中を強打して、浴槽に押しつけられた。逃げ出せない。

 宗介はとっさに左腕を振り回す。傷口からの出血が、レナードに向かって飛び散った。

 血の目つぶしに、しかしレナードは退かない。

「この程度で怯むかッ」

 それは宗介も同じだった。宗介の右手はシャンプー台にあったカミソリを掴み取っていた。

 それでレナードの目を潰すのが狙いだった。

 だが、いち早くその狙いに気づいたレナードは、カミソリ攻撃を避ける。

「鬱陶しいんだよッ」

 ぐいっと片手で首を掴まれ、顔面だけが浴槽の水の中に押し込められた。

 むせて口を開くが、泡が出て水面ではじけるだけ。水中では呼吸ができない。首と肩をがっちり押さえつけられたままで、動けない。

 水を飲んでしまって、喉が苦しい。鼻で呼吸もできない。水の圧迫感が、思考をかき乱す。

 水面の向こうで、レナードの獣顔がにやりと笑うのが見えた。

「ふふふ、そこで溺れ死ね。動けなくなった身体でもがき苦しむんだ!」

 ぎらりと水面越しにレナードの目が光る。それと同時に、宗介は口を閉じた。普通ならさらにもがく場面で、宗介は動くのをやめた。

 吐きだす泡がなくなって、水面がなだらかになる。そして綺麗になった水面は、対面するレナードの瞳をうっすらと鏡のように映した。

「しまっ……!」

 水面に映った自身の瞳から発せられた催眠で、レナードの獣の身体が硬直した。びきびきと石のように、身体の細胞が硬くなっていく。

「ガ……アァッ!」

 ためらってる隙に、宗介は手探りでさっきのカミソリを拾い取り、レナードに向けて振り回す。

 あまり見えない状況でひたすらに振り回していると、いくらか切りつけた手応えがあった。

 レナードは体勢を崩して、後ろに倒れた。

 拘束が解けて、宗介はがばっと浴槽から顔を起こし、少量の水を吐く。

 レナードは腕から血を流していた。しかし深くはない。

 致命的な負傷にはならず、レナードはゆっくりと起きあがる。鏡のように完全に反射したわけではないので、全身硬化という催眠の効果が薄くて済んだらしい。しかし、身体を動かそうとすると石化した境目で激痛が走る。

「ア……ウゥ」

 のたうってる隙に、宗介がカミソリを振りかぶった。

 ざくり、と今度は深い手応えがあった。硬い体毛の中に、血が噴き出す。

 もっと。もっとだ。

 二撃、三撃と加えるが、力がうまく入らない。苦しげにレナードが野太い腕を振り回す。その風圧だけで、宗介はよろめいてしまった。

 ゆっくりと、しかし弱々しくレナードは浴室を抜け出す。完全に獣であれば、ここで邪魔者を排除することを優先するところだが、理性を残していたレナードはひたすら保身に走っていた。

 宗介はすぐにでもレナードに追撃したかったが、宗介自身も身体の動きが鈍い。

 レナードだけでなく、宗介も催眠にやられているのだ。水面越しでも、身体が硬直する催眠が効いていて、身体を蝕んでいく。

「ぐ……う」

 とっさの機転だったが、反撃に転じれない。せっかく休ませた身体が、もう限界に近い。

 腕の傷口を、近くの脱衣所のバスタオルでくるむ。強く縛るが、止血には至らない。早く出血をどうにかしないと、失血死してしまう。

「ここは無人島だとか言ってたな」

 それならばあれがあるはず。宗介はきしむ身体を懸命に起こし、力無い足取りで浴室を出ようとする。

 ふと隅に、ちぎれた左腕が目に入った。ここまでずたずたになっては使い物にならないが、宗介はそれを拾っておいた。

 ミスリルの飛び抜けた医学力なら、手術で元のようにくっつくかもしれない。そんな根拠のない淡い期待を抱きながら。

 廊下にレナードの姿はなかった。どこかでこっちを殺す機を伺っているのか、あの身体をどこかで休めているのか。

 宗介は身体を引きずって、階段でさらに下へ下りる。

 浴室の真下の部屋に行くと、そこはやはりボイラー室があった。ボイラーは稼働していて、熱気がこもっている。

 その蒸して熱くなっているパイプに、宗介はねじ切られた左腕の傷口を押し当てた。

 ジュアッとフライパンで熱したような音が響いて、傷口を無理矢理熱で締める。高熱でやけど状態だが、なぜかその痛みの感覚は感じなかった。

「うぅ……」

 痛みはないが、熱い。汗で視界が滲む。

 ちぎれた左腕を右腕で脇に挟んだまま、ボイラー室を出る。それだけで廊下の空気がひんやりと感じられた。

 がくりと腰が落ちる。もう疲労困憊だった。足取りが重い。

 しかし、レナードを仕留める数少ない機会が今だった。たぎる復讐心だけを糧に、懸命に前へと壁にもたれつつ進んでいく。



 レナードは自室に駆け込んでいた。身体のあちこちが言うことを聞かない。

 硬くなった筋肉が痛みを訴える。

 そして宗介からのカミソリ攻撃によってできた切り傷から、出血が止まらない。

「ウゥ……アゥ」

 人間の理性を保ったまま、強化できる限界のこの姿。それでも、レナードは苦痛をもたらされている。

 あちこちの内蔵が硬化したままだと、生命維持の危険を脅かす。

 しかし、この苦痛を抜け出すには、さらに強力な暗示をかけなければならない。

 この姿よりも、さらに強化した生命体。それになることがどういうことなのか、レナード自身よく分かっていた。

「なんで、この……ぼくが」

 父を越えたはずなのに。父の二の舞にはならないと決めていたのに。

 硬化していく箇所に、血が溜まっていく。どんどん身体の動きが鈍くなっていく。

 ゆっくりと、死が近づいてくる。それを回避するためには、やらなければならなかった。

 レナードが鏡に近づこうとする。そこで自室のベッドの横に立てかけていたヴァイオリンが目に入った。

「う……」

 見つめること数秒、獣の目からうっすらと涙が浮かんだ。失われようとしていくものを目先にして、また感情がこみあげてきた。

「なんで。なんで……」

 事態を全て収拾させて、ケリがつけば元の姿に戻るはずだった。そうして、また音楽のある日常を過ごすつもりだったのに。

 ミスリルのせいで表世界の音楽界から抹消され、それでも演奏を続けたかった。

 だが、もうそれができない。生を選んでも死を選んでも、その先に音楽はない。

 すがりつくように、レナードはそのヴァイオリンを手に取った。大きな獣の手に不似合いなそのヴァイオリンは、獣の爪先によって、軽やかな音を醸し出す。

 その音色に、レナードは目を閉じた。

 これを最後の演奏とするように、愛おしく、弓を引いて音を奏でる。

 たった一人の演奏は、とても静かで切ないメロディーだった。



 立ちはだかる飛鴻の実力は、椿一成の予想を遙かに超えていた。

 前に対峙した拳法使いである兄と同じ流派なのに、筋肉強化した飛鴻は比べものにならない強さを持っていた。

「なんなんだ、その動きは。てめえ、本当に人間か?」

「光栄に思え。貴様は今、人間の秘めた潜在能力を限界まで引き出した男を相手にしているのだ」

 今までの催眠で強化された襲撃者とは違う。戦闘に必要な筋肉を限界まで引き出し、拳法と相乗効果をうまく出していた。

 一成の攻撃が効かない。彼の筋肉の鎧は、一成の持ち技全てをはね返していた。

 飛鴻が床を蹴る。一成は身構えたが、さらに意表をついて壁に、天井にと動き回って接近してくる。

「くそ、ホラーもんじゃあるめぇし」

 一成は一成で機敏に動き回り、視界と飛鴻の姿が重なったところに気を練った一撃を放つ。

 普通ならばその威力は骨にまで届き、へし折ることもできた破壊力。しかし尋常ならざる分厚い筋肉がそれを阻み、耐えられてしまう。

 そして飛鴻の反撃。とっさに身構えた一成の腕を跳ね上げ、どてっ腹に掌低を打ち込む。

 鍛え上げた腹筋が歪み、後から来る重い塊に、後方に吹っ飛ばされた。

 背後の壁に背中からぶつかり、勢いで頭を強打する。一瞬、意識が真っ白になりかけた。

 視界がぐるぐるに揺れる。感覚がおかしい。

 立ち上がることができずに、壁にもたれたまま息を吐く。

 為す術がない。単純な戦闘力だけで自分を越える者がいた。それだけだった。

 ぼやけた飛鴻の姿が、こちらに向けてなにかをしようとしてくる。

 また掌低の構えだ。トドメを刺すつもりなのだろう。それが分かっていても、逃げられない。

 足が言うことをきかない。一成はそこで、死を覚悟した。

 最後の言葉も思いつかず、飛鴻の攻撃が向かってくるのを見つめていた。



 目がかすむ。

 宗介は膝を床につけ、息をつく。

 いい加減に楽になりたい。もう少し身体を休ませようか。

 宗介の足取りが完全に止まったとき、今までで一番大きな振動が、洋館全体を揺らした。

「……今度はなんだ?」

 振動の元は、廊下の一番奥にいた。のそりとそれが動く。

 それは咆哮を上げた。完全に獣の叫びで、びりびりと空気を震わせる。

 体格が完全に人間のそれを越えていた。天井まで届くその背に、銀色の体毛。

 それはレナードだったが、さっきよりも一回り大きくなっていた。そして仕草が人間味を失っている。

「あれは……」

 その姿を見て、宗介はカリーニンの言葉を思い出していた。

 ここに突入する前に交わした、カリーニンとの会話を。



「クライブ・テスタロッサのことだ」

「クライブ……」

 ミスリルのカリーニンの部屋で、カリーニンは厳かに語り始める。

「わたしは数人の戦闘員を引き連れて、クライブを追いつめた。途中で何人かの部下が犠牲になってしまったが、路地裏に追いつめた時点でわたしと戦闘員三人。戦力でいえば、圧倒的にこっちの有利だった」

 簡単に言ってみせるが、当時最強の催眠術師だったクライブをそこまでの状況に持ち込むのは相当な犠牲があったはずだった。

「しかし、そこでクライブが最後の手段を取ったのだ」

「最後の手段……」

「サガラ。催眠で人間に自殺させることはできると思うかね」

 いきなり内容が変わったが、宗介はまずその問いに答える。

「ええ」

 第三者に暗殺させたあと、なんらかのキーワードを与えて自殺させる。そのケースはごく普通にありふれていた。

 大物の催眠を使った暗殺事件で、実行者が取調室でいきなり自殺に走るのは、そういう暗示が入っていることが多い。

「では、催眠で人間をどこまで変えられると思う?」

「変えるというのは?」

「人間を別の生物に変えることだよ。例えば人に『自分は人間ではなく犬だ』と思いこませる催眠があるだろう」

「それなら、催眠の定番としてよく見ると思います」

 よつんばいになっていきなりワンワンと吠えたり、なわばりを意識してシッコを引っかけようとしたり。

「だがわたしが言ってるのは、そういうことではない。犬だと思いこむのではなく、すべてだ。『犬になりきる』のではなく、『犬になる』。それは身体のことも指している」

 わたしは犬だと思うだけでなく、肉体的にも犬に変化させる、といいたいのだろうか。

「……どうでしょう」

 答えようがなかった。それ以前に、そんなことを考えたこともない。

 だがこの世にはオオカミに育てられた『オオカミ少年』が存在する。

 身体は人間そのものだが、生活や動きがオオカミそのものだという。

 催眠を使えば、それくらいのことはできそうだ。だが、それで身体までもがオオカミに変えられるとは想像しにくい。

「人間の肉体は、精神に比例する」

 想像妊娠や、やけどしていると思いこむと、本当にやけどしたような痕がつくといった例だ。

「しかし、限度があるでしょう」

 その例があっても、身体までもがそこまで変化するとは思えない。

「その通りだ。例えば人に『お前は人を越えた怪物だ』と催眠をかけたとする。それで筋肉が強化されたとしても、それはあくまで人間としての筋力だ。より怪物に近い筋力を引き出したとしても、人間の限界を超えることはできない」

「奴らの催眠術でも?」

「人間には、たとえ自殺させることはできても、人間という枠を破らせることはできない。それは生まれた時点で備わる使命といってもいいかもしれん」

「使命?」

「表現が難しいのだがな。『人は人として生まれ、人として死ぬべきだ』わたしはこう解釈しているのだが、理解できるかね」

「……人でないものになることは、どれだけ強力な暗示でもできないということでしょうか」

「催眠は人を操る。自殺させることもできるし、人間の枠の中でなら感覚を操作し、筋力を変化させることもできる。だがいかにテスタロッサの強力な催眠でも、『人間である』ことを変えさせることはできない。それは誰にも踏み込めぬ領域なのだ」

 カリーニンの持論は、宗介にも納得ができる。第三者にどれだけ操られようが、それはあくまで『人間』の中でのことなのだ。

「しかし、たった一人に対してだけ、それを変えることができる」

「まさか」

「誰だと思うかね」

「わかりません」

「『自分自身』だよ。他人に命令されても、『人間であること』を捨てることはできない。拒絶する権利は誰にだってあるからな。だが、自分自身ならば『人間であること』を捨てる選択肢は持てるのだ」

「まさか……」

「それが自身の心でのみ作ることの出来る『覚悟』と『決心』だ。それは他者には左右されない」

「まさかクライブは……」

「そう。追いつめられたクライブ・テスタロッサは自己催眠によって、本物の怪物となったのだ」

「しかし、それは言い換えれば……」

「そうだ。怪物となった時点で、クライブは人間であることを捨てた。それはすなわち、人間のクライブはその時点で死んだことになるのだ」

「…………」

「ジョージを覚えているか? ミスリルの任務のひとつだった、あのドラキュラ事件だ」

「はい。自分はドラキュラだと思いこんでいた狂信者が、催眠でドラキュラ化した男」

 千鳥と組んで、世界のあちこちを飛び回る羽目になった厄介な事件だった。ジョージは架空のドラキュラの弱点までもが実在するものと思いこみ、その弱点によって倒された。

「そう。あれがもっとも近い例だろう。彼は彼自身、ドラキュラになることを望んでいた。催眠で無理矢理思いこまされたわけではなく、自らなりたかったという珍しいケースだ。ただあの人になりたい、というような憧れではなく、自分がそうなのだ思いこむのは並大抵のことではない」

 それだけ強かった思いが、ジョージをあそこまで変化させたのだ。

「普通ならどれだけ思いこみが強くても、肉体は人間の枠内でしか変化しないのだが、ドラキュラは元々人間をモデルとして作られた怪物。人間をベースにしていた対象だったため、あそこまで身体の変化に対応できたのだ」

 ジョージの事件は、いくつもの偶然と要素が折り重なって発生した事件といえた。

 そしてジョージのドラキュラ化の異様な存在感は、宗介が身をもって味わっている。彼が時折見せた筋力は、人間の常識をはるかに越えていた。

「クライブの最後の切り札は、当時のわたしたちには予想もしなかった事だった。結果、その場で戦闘員三名が殉死、わたしは左腕を失う犠牲を負った」

「…………」

 カリーニンの欠けた左腕が、その言葉に重みを乗せる。

「くれぐれも最後まで油断するな、サガラ。おそらくはレナードもその切り札を持っている。それを念頭においた上で、行ってくるがいい」

「……ええ」

 これを知っておくのは大きな助けとなった。レナード自身は戦闘力を持っていないという認識を改めることができたのだから。

 すっと宗介は右手を差し伸べる。カリーニンも右手を出して、互いに堅く握手を交わした。



 廊下の向こうで吠えているレナードは、もう人間ではない。ただ破壊を求めるだけの獣だ。

 それは同時に、人間のレナードの死亡を意味していた。

 勝った。

 俺は勝ったのだ。

 ずるりと腰が床に落ちる。もう動くのも辛くて、壁に背中を預けた。

 そして小さく拳をつくってガッツポーズをとった。長年の復讐を、ついに果たせたのだ。

 レナードだった獣は、宗介と目が合っても、相手にしてこない。もはや彼に人間としての理性はない。ただ周囲の壁が狭くて鬱陶しいと、拳で殴りつけて壊しているだけだ。

 宗介にはもう相手をする気はなかった。

 暴れたいなら勝手に暴れるがいい。ここはつくられた無人島。獣の知性では島を抜け出して資源のある他島に向かうなんてことも考えないだろう。

 俺とここで共にくたばるのだ。

 宗介はゆっくりと息を吐いた。

 もうこれで終わりだ。

 このまま俺もここで終わる。

 死は怖くない。

 もう、死は怖くなくなった。



 幼少のあの日から、宗介は何度か自殺を試みた。迫り来る悪夢に耐えきれず、楽になりたいと願った。

 カミソリで何度か手首を切ろうとした。高いところから落ちようとした。

 それは幾度も失敗し、ただ無駄に過ごす日々が続く。

 しかし、ある日を境に死がとてつもなく恐ろしくなった。

 それは一つのテレビ番組を見ていたときのことだった。

 番組の内容は、『死後の世界』だった。

 あらゆる憶測だけが飛び交い、できもしない検証と予想の言葉が流れていく。

 輪廻転生、天国、死とはなにか。

 死んだらどうなるのか。三途の川は実在するのか、死に神が魂を運ぶのか。

 そのうちにひょっこり出てきたひとつの言葉に、宗介はひどくさいなやまれることになる。



『死とは、永遠に夢を見続けることだ』



 このたった一言が、宗介をひどく苦しめた。

 あの悪夢を永遠に?

 死ねば解放されるわけではない?

 むしろ、それ以上に抜け出せなくなる?

 気が狂いそうだった。

 死が唯一の抜け道だと信じていたのに、それが地獄の入り口だった。

 ただの比喩の言葉であっても、宗介には重い一言だった。

 もちろん憶測のひとつであって信憑性はまったくないが、完全に否定することもできなかった。

 どうやって、そうではないと証明できるのか。死ねばそこで終わり。そのあとに何が起ころうと、その出来事を伝えることはできない。

 答えの見つからない恐怖に、宗介は自ら死ぬことをやめた。

 警官になってからは、死に対する考え方が別れていく。

 犯罪者を目の前にすると、テスタロッサの面影をかさねて理性を失いかける。そのときの宗介にとっての死は、『死んでも仕方がない。それが俺の罪だ』ヤケになって、諦めていた。

 しかし同時に、死ねばテスタロッサに復讐ができなくなる。死ねば永久の苦しみを受けることになるかもしれない。

 この両極端な結論に、危ういバランスを保ちながら生きてきた。

 その終わりの見えない苛立ちに嫌気が刺し、レナードを倒した時点で全てを放棄しようと思った。レナードさえ殺せれば、それでいい。たとえ永久に悪夢を見ることになろうとも、それでいい。

 そう決心してのアマルガム本拠地への出撃だった。

 だがレナードに『クライブに受けた悪夢という呪縛は、レナードが死ねば解放される』という事実を受けて、宗介は救われた。

 レナードを殺せれば、悪夢は見なくなる。安らかな眠りにつける。

 そして人間のレナードは死んだ。宗介はもう、あの悪夢を見なくてすむのだ。

 長年のわだかまりが取れて、心地よかった。

 もう、死ぬことは怖くない。

 やけに耳鳴りがする。

 聴覚が麻痺していくにつれて、音が次第に遠ざかっていった。



 レナードはただ暴れ回る。彼の住まいだったはずの洋館は、レナードの暴走で形を崩していく。振動が何度も繰り返され、その度になにかが落ちて壊れていく。

 宗介の頭の上からは、雨のようにコンクリートの細かい砂が降ってくる。振動が続く中で、崩壊は徐々に大きくなっていた。

 あちこちの壁や柱が瓦礫となって、舞い散る砂煙にさらされる中で、宗介はゆっくりと目を閉じた。

 思考の途中で、宗介の意識はゆったりと暗転する。

 そのまま暗闇の中へ潜っていった。

 崩壊の音が始まった。




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