かりそめの罠

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かりそめの罠


その日、相良宗介は、なにかの音によって昏睡から目覚めた

「ん……」

だが、まだ布団から抜け出る気にはなれず、じっと天井を見つめる

「…………」

まだ体にけだるさを感じ、布団のぬくもりを感じながら、そのままぼーっとする

すると、さっきの音がよりはっきりと聞こえてきた

それは、水の音だった。ザーッと流れる水の音が、宗介の眠りを打ち消したのだろう

だがその音は、この部屋からではなかった

(またか……)

宗介は目をこすらせ、眠気を強引に振り払う。そして布団にくるまったまま、上半身を起こした

(まったく……壁が薄いと何度も忠告しているのに……)

恨めしげに、壁を睨む。その壁の向こうには、千鳥の部屋があった

そしてこの薄い壁を越えて聞こえてくる水音は、朝のシャワーに違いなかった

こういうプライパシーの時は、テレビかラジオの音でもつけて、かき消しておかないと、隣の部屋に結構伝わってしまう

だが千鳥は、こういう日常生活にかけては注意力散漫なのか、何度かそれを忘れてしまう

そこで、宗介はその壁に寄りかけて、それから拳でその薄い壁を、ゴンゴンと叩いた

そのノックをしてから、すぐにシャワーの音が止まった

そしてどたどたと走る音と、続いてテレビの声が流れてくる

さっきのノックが聞こえ、つまり筒抜け状態だということに気づき、慌ててシャワーの音を消すために、テレビをつけたのだ

「やれやれ……」

これで、もう気にする必要はない。一回、うーんと背伸びしてから、またごろんと布団の上に寝転んだ



千鳥が研修として、相良の勤める交番に加わってきてから、一ヶ月が過ぎていた

それまでに千鳥は地域課の仕事をほとんど覚え、書類仕事から市民の苦情の対応と、この交番としてかなり使える人材になっていた



昼頃――

交番の中で在所として勤務についているクルツと宗介は、机の上に置かれた冷やしソバをすすっていた

「はー、麺もいいけどよ、やっぱこのつゆが最高だね」

クルツが手元のソバをたいらげながら、つゆ瓶と面向かって、賛辞を述べた

「このつゆは、うどんにも合うだろうか」

と、宗介も冷やしソバをたいらげてから、つゆの組み合わせを考えてみた

「いやいや、これはソバ専門だろうよ」

宗介よりも日本通なクルツが、真面目な顔でそう決めつけた

「このラベルを読めよ。『そばつゆ さらさら』って書いてるだろうが。それなのにうどんにかけたらそりゃおめえ、邪道ってもんだ」

「しかし、うどんはうどんでつゆを用意するのは勿体無いように思うが……」

「貧乏だからってよ、食のこだわりを失っちまっちゃお終えだぞ」

そんなどうでもいいやりとりをしている二人とは別に、千鳥はというと、今日の新聞を読んでいた

すると、ひとつの記事に惹かれたらしく、急に声をかけた

「ちょっと、クルツさん。これ見てください」

「あん?」

千鳥に勧められ、クルツはいったんソバをすするのをやめ、その指された記事を覗き込んだ

「なになに? ……『怪盗レイス・大胆予告状がまたも届く!』」

「これがどうかしたのか?」

クルツの読み上げた内容を聞いて、宗介がかなめに聞いた

「だって。今のこの時代に、今更『怪盗』ですよ。まだこういう呼称を使う人っているんですねえ」

その千鳥のどこか外れた意見がおかしくて、クルツはつい口に詰めていたソバをぶっと噴き出してしまった

そして宗介も同様に、クルツと同じく声を押し殺して笑っている

「……なんです?」

「い、いやあ。それを本人が聞いたらどういう顔をするかなあって思ってな。くくっ」

クルツがまだ余韻を残しながら、そう言った

「…………」

すると千鳥は、また記事に目を向けた

「でも、この怪盗レイスって……捕まえられないんですか?」

「怪盗レイスはな、変装の名人なんだ」

宗介が、つゆを受け皿にとぽとぽとつけ足して、言った

「変装の名人?」

「ああ、ヤツの変装術にゃ、怪人二十一面相も真っ青さ。その変装は、身近な関係者でさえも欺けるほど精巧なんだぜ」

「そうだ。あと、免許証やパスポート関係の偽造も完璧だ。ヤツにとっては、な」

そう説明するクルツと宗介は、どうもメディアを媒介して手にした情報とは思えなかった。

もしや、会ったことがあるのではないか? と、かなめは推理してみた

「怪盗レイス、ですか。どういう顔をしているんでしょう」

「おい、クルツ。そのへんに古い新聞、なかったか?」

「ああ、あるぜ。レイスの顔写真の載った新聞がよ」

と、新聞紙をよこし、社会面を見せてきた

そこには、オールバックに少し垂らした髪。そしてなにより特徴的な、鋭い目つきをした男の写真が載っていて、その記事には怪盗レイスの事件が書かれていた

「ちゃんと顔は割れてるんですか」

「ああ。こいつがレイスだ」

「顔が分かってるんなら、どうして捕まえられないんです?」

「ヤツの手口は、まず変装して中に忍びこみ、ターゲットを盗む。そこからこの顔に戻して、退場していくんだ」

「盗まれるまでは、この顔ではないってことですね」

「そう。どんな顔に変装するのかは毎回、分からない。だがなぜか、盗み終わると、この顔になってから出ていくんだ」

「これがレイスの正体なら、指名手配すれば、すぐに情報が集まるんじゃないんですか?」

「ところが、見つからないんだよ」

「どうしてです?」

「警察の中で、いろいろな説が上がっている。ヤツは普段からどこかの裏組織にかくまわれてるか、怪盗らしく、巧みに隠れ住んでいるか。そして、その顔さえも、作り物か」

「この顔も作り物だったら、こういう風に顔写真を公開するのは混乱を招くんじゃありませんか?」

「だが、考えればキリがない。あくまでも最低限の情報ってことだ」

「相良先輩は、どう考えてますか?」

「そうだな……。これが素顔のようにも思えるがな。正直、分からん」

「一応は、レイスと区別できる、ひとつの判断材料ということですね」

「そういうことだな」

怪盗レイスは、ほとんどが謎ということだ

「……次はどこが狙われてる?」

宗介が聞いて、かなめは記事に掲載されている予告状の内容を読んで確認した

「えと。泉川宝石博物館になってますね」

「だとしたら、ウチの管轄内だな」

「ああ。たぶん俺たちも協力を要請されるだろう」

クルツと宗介が、そう言って顔を見合わす

「要請って……なにをです?」

「その博物館の警備の人員要請さ。怪盗レイス対策の警備は、かなり力を入れるそうだから、警備課だけじゃ足りなくなる」

「ああ」

なるほど、とかなめはうなずいた

「よぉーし。それじゃわたしたちで怪盗レイスを捕まえましょうよ」

かなめは燃えてきたらしく、はりきりだしたが、二人は気だるそうに言った

「あまり気乗りはしないな」

「オレも別になあ……」

「どうしてですかっ?」

せっかく高ぶった気分を崩され、眉をしかめるかなめ

対し、だらだらとソバを片し、ぐでっと椅子にもたれる二人

「どうせ捕まえられねって」

最初から諦めているクルツの言葉に、かなめはムッとした

「そんなの、やってみなくちゃ分からないじゃないですか」

「まあ、最初はオレもそう思ってたんだけどよ」

「……え?」

「オレ、もう三回はレイス絡みの捕獲に駆りだされてたぜ」

「捕まえられなかったんですか?」

「ありゃあ、捕まえられるわけねーよ。煙みてえだ。掴み所がねえ」

うんざりしたような顔で、そう言った。

追い詰めても追い詰めても、結局逃げられ、その徒労が無駄に終わって空しくなる。と、クルツは付け足した

「オレはすぐ諦めたけどよ。こいつに関してはもっとスゲエぜ」

と、クルツは相良宗介の肩を掴み、引き寄せ、にししと笑った

「なにせこいつはオレが知ってるだけでも、十六回は追い掛け回してたからな。まあ、もう何ヶ月か前の話だけどよ」

やはり、レイスを追いかけていたことがあったのだ、この二人は。

レイスについて語る口ぶりからして、さっきのかなめの推理は当たっていたわけだ

「相良先輩でも捕まえられなかったんですね」

一ヶ月のうちに千鳥は、相良巡査から相良先輩と、階級付けの呼び名で呼ぶことはなくなっていた

そしてその千鳥の質問に、特に気分を害した風もなく、宗介は淡々と言った

「昔の話だ。今は……まあ、事情が変わって、あまり執着はしていない」

「でも」

かなめは強い口調で言った

「目の前で犯罪が行われようとしているなら、それを未然に防ぐのがわたしたちの仕事です」

「はいはい、仕事はしますよ」

クルツがそう言ったとき、交番に設置されている電話が鳴り出した

「はい、こちら泉川署交番……」

千鳥が受話器を取り、丁寧口調で対応する

しばらく「はい」を繰り返し、その受話器は元の場所に戻された

「どこから?」

「本部からです。とにかく来てくれと」

「分かった。んじゃ行くか」



時刻はすでに夕方――

宗介の予想通りとなった

その本部からの話とは、今回のレイスのターゲット先の警備の人員が足りないから、手伝ってやってくれとのことだった

そして三人は、泉川宝石博物館のまわりに配置された警備員の一人として立っていた

館内にも数十名。そして館外には宗介たちを含め、ざっと四十人。

裏口を固めたり、人払いや、見回り巡回と、役割がそれぞれに分担されていた

そしてその正面入り口の近くのパトカーに腕を乗せて、鋭い眼光を飛ばしている担当刑事の二人組

まさに映画やアニメなどで観たような光景が、そこに広がっていた

「……こんだけ警備を固めても、怪盗レイスにゃ通用しねえと思うけどな」

あくびを噛み殺しながら、クルツがつぶやいた

「こんなに厳重なのに、ですか?」

初めての警備についたかなめは、まさかこれほどまでの大人数にまでなるとは思っていなかったようで、その物々しさに圧倒されていたところだ

それでさえ、レイスの前には意味がないと決め付けるクルツの言葉が、どうにも信じられなかった

「それが怪盗と言われるゆえんさ」

クルツはそれだけ言い残して、警察帽を直し、配置場所に移動していった

「…………」

そうは言われても、やはりピンとはこなかった

怪盗とかそういうのは関係ない。ただの窃盗犯罪を誇張しただけだ

ただ世間の注目を浴びたいがために、大々的に予告状を送りつけ、その中で窃盗をしているだけにすぎないのだ

そうに決まっている。どういう手口で今まで逃げ延びてきたのかは知らないが、ただの私欲に溺れた窃盗犯だ

そんなのは、わたしが絶対に捕まえて、もうそんな勝手はさせない

かなめはぎゅっと口を引き締め、その時がくるのを待った

月が三日月に欠けた夜――

暗くなり、博物館の出入り口や、その周りをサーチライトで明るく照らしておく

遠くから見ると、まるでこれから一大イベントが始まるかのような雰囲気だった

「異常はないか?」

担当刑事がピリピリと神経を尖がらせながら、館内の警官と連絡をとっている

『こちらB班、宝石類に異常なし』

もう何回繰り返されたろうか、お決まりの返事が返ってきた

そしてふう、とため息をついたとき、別の無線から急き立てた声が割り込んできた

『こちらD班。警報装置がいつの間にか切られていました!』

その知らせで、担当刑事の目が鋭く切り替わった

「なんだと。それで、どのフロアの警報が無効になったんだ?」

『南館全域です』

その報告を受け、担当刑事が、南館の人員を増やし、警備を厳重にしろとの指示が下った

二十人近い警官たちが、南館目指して走っていく

次に、担当刑事は監視室で監視モニターをチェックしている班に連絡をとった

「南館に怪しいヤツは映ったか?」

『いえ、今のところ映像には異常ありません』

数十ものモニターに映る画面の中は、いたって静かでなんら変化のないものだった

「引き続き、よく注視していろ」

そう言って、視線を南館の方の監視モニターに向け、じっとそれを見つめる

怪盗レイスが狙っている宝石は、北館に置かれている。南館の警報装置を無効にしたのは、そこからの侵入経路をつくるためだろうか

博物館は四階建ての構造になっている。そして目的の宝石は二階という、守りやすいとも守りにくいともいえる位置にあった

これでは下から侵入してくるのか、上から侵入するのかを絞ることも容易ではないのだ

「あっ!」

突然、モニターを監視していた男が声をあげたので、担当刑事がすぐに駆け寄り、「どうした」と聞いた

「北館のディスプレイから宝石が消えています!」

そのモニター映像の、ガラス箱の中で見事な輝きを放っていた宝石が、いつの間にか消えていた

「なにを見ていたんだ!」

「そんな……ずっと気をつけていたのに、姿が見えなかった……」

「うるさい!」

それを言い訳として、聞きたくなくて、怒鳴って黙らせた

「二階に急行しろ! ヤツはもう入ってきているぞ!」

連絡をとって、近くにいる警備員をそこに向かわせた

そして刑事もその現場に急行していく

中央館を抜けてたどり着いた北館の二階で、守るべき宝石はガラスから消えうせていた

「くそっ!」

悪態をつき、忌々しげに、近くの壁に拳を叩きつけた

「まだヤツの姿は見えないのか!」

無線で監視班と連絡をとると、向こうから新しい知らせがあった

「姿を捉えました! 中央館の階段を上がっています」

「あぁ?」

この北館に来るのに、中央館を抜けてきたばっかりなのに、誰もその姿をみなかったのか?

「なめやがって」

担当刑事は、数人の警備員達を引き連れて、今度は階段を駆け上がっていく

その階段の途中の小窓から、刑事は身を乗り出し、見下ろして、外を警戒していた警備員たちにも声を掛けた

「おいっ! 手の空いてるヤツは上がってこいっ! 怪盗レイスはすでに宝石を奪って上に逃げている!」

早口でそうせきたてて、すぐに追いかけるために顔をひっこめた

その声を聞いて、外を見回っていた千鳥は、すぐにクルツたちの元へ駆け寄った

「クルツさん! もう怪盗レイスが来てたみたいですよ。おかしくありませんか?」

「おかしいって、なにが?」

「だって、怪盗ですよ? 怪盗だったら、派手な格好で、キザったらしく『怪盗参上』とか叫んで、もっと派手な演出して、登場するもんじゃないですか」

その言い分に、またクルツは、ぷっと噴き出した

「……それはマンガとかのメディアの中だけだ。そんな目立つことをしたら、忍び込めないだろう」

宗介がそう言った

「それをなんとかするのが、怪盗でしょう」

「現実では、そうはいかない。そんな無用心なことはしない」

「分かりましたよ。とにかく、応援を要請してるんです。すぐにわたしたちも行きましょう」

すると、クルツが疲れた顔をして、手を振った

「あー……オレ、いいわ」

「は?」

「俺もそれは遠慮しておこう」

「な、なに言ってんですか? すぐに追いかければ……」

「行ってきたらどうだ? それで捕まえられるといいがな」

そのやる気のなさに、千鳥はむかっときた

「そうですか。それじゃわたし一人でも行きます!」

捕まえてやる。そして捕まえて、あの二人を見返してやるんだから!

他の数人の警備員とともに、千鳥は館内に入っていった

残って、外で警備を続けるクルツと宗介は、それを見送った

「捕まえられると思うか?」

ぼそりとささやいたクルツの言葉に、宗介は軽く首を振った

「無理だろう」

「賭けようか。オレは捕まえられねえ方に千円」

「俺も捕まえられないほうに千円だな」

「……賭けにならねえじゃねえか」

「損はしたくないからな」

二人は、また小さな声で、笑い合った




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