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狙撃手は電気羊の夢を見るか 2


コロンバートの家は、先日とは違って、取り囲むように大勢の人が集まっていた

地上班の何人かが野次馬を遠ざけ、その内側で大勢の警官が作戦を練っている

クルツたちは、その人だかりとは遠く離れた建物の屋上に着いていた

この狙撃地点から、誘拐犯を狙い撃つことになっている

「状況は?」

「地上班の方から、交渉にかけています。ですが、犯人側は一向に相手にしません」

「そりゃそうだろうな。向こうの狙いは例の裁判を潰すことなんだ。金とかそういった取引対象がない」

相手の要求はこうだろう。「裁判に出廷するな」

その保険として、人質をとる。裁判は四日後。それまでに人質を解放してしまったら、誘拐犯にとって事件自体が意味をなさなくなる

「時間の無駄だぜ。さっさと狙撃して終わらせちまおう」

クルツはスナイパーを構え、スコープを覗く。

この高さからの角度だと、コロンバートの豪邸屋敷を囲んでいた高い塀も邪魔にならず、中が見えた

現場となっている部屋は、ここからでも半分ほど見渡せられる。いくつかの窓にはカーテンで閉められている。開いているのは二つの窓だ。

そしてそのひとつに、人質の姿が見えた。

人質は白い布で目をふさがれていた。犯人に指示されてるのか、まったく動かない。その周りには弾薬がたっぷりと置かれている。

最悪なことに、人質の体にも、爆弾と思われるものが直接巻きつかれていた

コードが延びていないので、有線ではなくなにかの起爆電波で発動するタイプと思われた

さらに窓ガラスが割れている。犯人が割ったのだろうか。

窓がないのは、狙撃にとって大きな違いだった。犯人と狙撃の間の窓が、銃弾の軌道を変えたり威力を減らしたりしてしまう。

だが、それがない。その障害が一つ減ったことは、狙撃班にとって有利だった。

そのときだった。

窓の奥から、新たな人影があらわれた。ニット帽をかぶった男だった。片手にマシンガンを持っている。

誘拐犯だ。

クルツは引き金に力がこもった。

「待て、まだ撃つな」

隊長の声が、クルツをとどまらせた。

「まだ誘拐犯の情報が乏しい。許可が下りないうちは射殺するなよ」

「しかし、今なら確実に撃てるぜ」

「他に仲間がいたらどうする。そいつを殺せても、仲間に人質を撃たれてしまったら意味ないだろう。今、地上班と連絡をとって、情報を仕入れているところだ。まだ我慢しろ」

「ぐっ」

しかし、そのとおりだった。まだ感情で動くわけにはいかない。

クルツははやる気持ちを必死に抑えておく。

ニット帽の男は、ひとつの所に立つのが嫌らしく、また奥へと消えていった

近いうちに、てめえを確実に仕留めてやる。クルツはその背中をじっと睨んでいた。



一時間後、地上班に対して、犯人からの要求が送られた。

それは食料の提供。人質解放の決め手にはならない要求だが、警察側としてはまだ従わなければならない。

この食料提供で、警察側はなんとか自分側を優位に立たせようとする。

たとえば食料を提供する際に、中を見て情報を入手したり、あらかじめ犯人の人数が分かれば、食料に薬を混入したり、盗聴器などを仕掛けて中に仕込むなどを策を講ずるのだ。

ミスリルとしては、下手に犯人を刺激してほしくなかった。できれば情報収集、無理ならなにもするなという心境だった。

地上班は、犯人との信頼を築くほうを選んだ。食料にはなにも仕込まず、代わりに量を少なめにしておく。

その狙いは、また食料要求させて、犯人との接触や交渉の回数を増やすことだった。

それが功を奏したのか、隊長に新たに情報が入った。情報源はミスリル本部なのか地上班かは知らないが、犯人はその一人だけだという。

コロンバートに証言台に立たれると困る組織の一員らしい。

人質事件の犯人は、かなりの確率で命を落とす。映画とかでは犯人がいろいろな策を講じるが、警察に囲まれた時点で終わったに等しいのだ。

無事に事件から逃れたとして、その後警察の組織的な追尾をずっとかわすのは難しい。だから、捕まっても組織的にはダメージの少ない末端の一員が誘拐犯として人選されたのだろう。

射殺許可が下りた。

一斉にクルツを含めた隊員たちが、それぞれの狙撃ポジションにつき、スコープを覗き、狙いを定める。

犯人の姿は、まだ視界には入ってこなかった。壁が死角になっていて、姿が視認できない。

辛抱して、犯人が窓にその姿を晒したときが、そいつの最後だ。

待ってろ、マリア。もうすぐ助け出せる。

そのときだった

不意に、その姿が窓にさらされた。スコープ越しに、人影がゆらりと端から出てきたのだ。

隊員たちに緊張の色が走る

だが、そいつはさっきの犯人ではなかった。

青年だった。銀髪の青年がゆっくりと歩いている。

館の中は、誘拐犯とマリアだけという情報を聞いていた隊員たちは、いきなりの登場に戸惑っていた。

すると、その銀髪の青年はこっちが見えているかのように、見上げてきた。

その銀色の吸い込まれそうな目と合った。とたん、クルツはぞくりと全身の鳥肌が立った。

これまでに感じたことのない、悪寒だった。なぜかは分からないが、目が合っただけで、全身が身震えてしまった。

「う……うあああっ!」

隣の隊員がいきなり喚きだした。

クルツはスコープから目を外し、辺りを見回す。叫びだした隊員は一人だけではなかった。三人ほどが同様に、挙動不審な動きを見せていた。

「どうしたんだっ」

隊長が呼びかけたが、隊員はそれに答えず、なぜかライフル銃を他の隊員たちに向ける。

隊長を含めた五人が、その動作に狼狽し、そして身構えた。

次の瞬間、ライフルが轟音を響かせた。一人の銃弾は逸れたが、二つの銃は近くの隊員を襲った。

至近距離の銃弾を腹に受け、倒れてしまう。もう一人は肩の上をかするだけで済んだが。

「くそっ」

正常な隊員がそのライフルを奪おうと、勇敢に体当たりしにいく。

クルツも隊長と一緒になって、近くの暴走した隊員を取り押さえにかかった。

ライフルは近距離の銃撃には向いていない。だから一人は当たらなかった。が、もう一人のほうは腹に直接押し付けられていて、避けれなかった。

「すぐに戦闘不能になった者を運び出せ!」

いきなりの隊員の暴走で、その場が混乱に陥ってしまう。危うくチーム同士で潰しかけてしまうところだった。

結局、暴走した隊員三人と、負傷した一人を出してしまい、いきなり半数を欠いてしまった。

「どうしたんだ、こいつら……」

「あいつだ」

クルツが、さっきの銀髪の青年のことを指して言った。

「思い出したぜ。いきなり現れたあの銀髪野郎、催眠術師のレナード・テスタロッサだ」

「レナード……ブラックリストのあいつか」

「なんであいつが、いきなりこんなところに出てきやがるんだ」

思いがけぬ彼の登場に、四人がざわついていく。

「ということは、さっきの隊員の暴走は、奴の催眠のせいか」

「だろうな。さっき目が合っただけで、ぞくりとしちまった。まだ構えたばかりで、集中力が薄かったのが幸いしたぜ」

さっきの暴走した隊員は、すでに集中力を高めていたので、レナードの催眠にやられてしまったのだろう

「そうだとすると、まずいぜ……」

「なにがだ」

「オレたちスナイパーは、スコープ越しに相手を狙う。スコープ越しだと、嫌でも集中力を高めている状態だ。つまり、あいつの催眠攻撃に、自分からかかりやすい状況を作ってしまってることになる」

催眠は、かけられる者がそれに対して集中力を高めていると、非常にかかりやすくなる。ということはだ

「奴と目を合わせるだけで、やられるぞ」

「それって、俺たちはあいつに何もできねえってことかよ!」

「自分から猛獣の檻の中に入っていくようなもんだ。やられたな」

「くそがっ!」

思わぬ来訪者によって、スナイパーが一気に無力化されてしまった。そのことに悪態をついた。

「仕方ない。しばらくは待機だ。本部にこのことを伝え、次の指示を待つ」

隊長の命令で、みんなは銃を下ろした。クルツだけはそれに納得がいかず、もう一度構えようとする。

「クルツ! 命令だ!」

隊長の叫びに、びくりと身をすくめた。そしてぎりっと悔しそうに歯軋りして、ゆっくりと銃をおろす。

「辛抱しろ。いつか解決策が見えるはずだ。気持ちを切らすなよ」

隊員たちは目を合わせずに、頷いた。

マリア。もう少しだけ待ってくれ。もう少しだけ。

クルツは遠くに見える館を睨んでいた。



「なんだ、てめえはぁ!」

館の中で、ニット帽の男は突然の青年の出現に驚き、そして警戒した。

銃の先を人質から青年に変える。この場所は窓から離れていて、外にはその様子は見られていなかった。

「どこから入りやがった!」

人質事件を起こしておいて、ドアの鍵を開けっ放しにするほど間抜けじゃない。少しでもドアが開いたら、すぐに気づくくらいに神経を尖らせていたつもりだった。

だが、この目の前の銀髪青年はそんな警戒網をいともたやすくすり抜け、こうして対峙してやがる。小馬鹿にされた気分だった。

「ぼくに銃を向けないでほしいな」

銀髪青年は不快をあらわにした目をニット帽の男に向けた。

とたん、男の腕が思い通りに動かなくなった。腕の筋肉が痙攣をおこしたかのように、びきびきと引きつっている。

「な、なんだ?」

銃口を、銀髪の青年に向けられない。引き金が引けない。自分の腕が自分のものでなくなったような不気味な感覚だった。

「ぼくは銃を向けられるのが嫌いでね。安心しなよ。ぼくは貴方を助けにきたんだ」

「た、助けにだと?」

「貴方の組織から、逃がしてもらうように依頼されてね。まぁ、大した仕事じゃないけど」

「そ、組織が?」

事情が飲み込めていないのか、ニット帽の男は狼狽していた。まだ銀髪の青年に対する警戒心を解いていない。

「てめえは誰なんだ。どうやってここに入ってきた」

「ぼくはレナード。ここに入るくらい、たやすいこと」

「ここから俺を逃がすだって。どうやってそんなことができる。俺は騙されんぞ」

「簡単さ。周りの奴らに、ぼくらを認識できないようにすればいい。ここに入ってきたのと同じようにね」

レナードは、答えながら男に近づいていく。

「く、来るな! 俺は騙されんと言ってるだろうが!」

じゃきっと銃を構えて、レナードの頭に向けた。

「さっき言ったこと、もう忘れたの? ぼくに銃を向けるなと言ったはずだよ」

銀色の目が、一瞬細くなった。

「ぐ……ああ……」

ニット帽の男は急に呼吸ができなくなった。空気が取り込めず、胸が窮屈になる。

「が……あ……」

まるで呼吸の仕方が分からなくなったかのように、体がまったく息をしようとしない。

銃を握る力も失われて、ごとんとそれを床に落とした。

「あ……」

意識が薄れ、どさりと床に倒れた。そしてもう起き上がることもできなくなっていた。

ニット帽の男は、事切れた

男が完全に息絶えるのをしっかりと見届けて、レナードは肩を小さくすくめた。

「やれやれ、これで仕事は失敗だな。まあいいけど」

そして邪魔になった遺体を跨いで、ゆっくりと窓に近づく。

その窓の向こうを見るように顔を上げて、口の端を歪めた。

「面白そうだし、もう少しここにいようかな」

同じ部屋の人質は、目隠しをされたままで状況が分かっておらず、静かに椅子に座っている。

ニット帽の男が握っていた起爆コントローラを手に取った

「さて、どうしようかな」

レナードは、窓の向こうのものと、どう余興を過ごそうかと考えていた。



「大きな問題が出てきたな。まさかこの事件に、レナード・テスタロッサも関わってくるとは」

「どうする。誘拐犯と結託されたら、厄介だぜ」

「いや。一番厄介なのは、人質をとられていることだ。人命第一に考えると、迂闊な行動はとれん」

「しかし、狙撃以外になにができる。あとは地上班に任せるしかねえんじゃねえのか」

「ミスリルの地上班が明日には到着する。彼らならなんとかしてくれるはずだ。こっちはその援護にまわる」

「だめだ」

クルツが、ぴしゃりと遮った。

「明日だと? 人質のマリアはまだ子供だ。時間が掛かれば掛かるほど、この事件でPTSD(トラウマ)を植えつけられちまう」

幼子のPTSDは、特に今後の人生の大きな障害になってしまう可能性が高い。

大の大人でさえ、人質事件に巻き込まれた被害者は、事件解放後も大勢の人ごみに居たり、大きな音を聞いただけで呼吸困難に陥ったり、体が動かなくなってしまうことがある。

そして障害に対して冷たい社会の中を生きるのに、それは大きな痛手となってしまうのだ。

「大体、そいつらが来たからってすぐに助け出せるのかよ。向こうはただの人質目的じゃねえ。金が狙いならともかく、奴は四日後の裁判に出席させないのが目的なんだ。奴は四日は立てこもるぞ」

「…………」

「そうなると強行突破か? 相手は誘拐犯だけじゃねえ。あの最悪なアマルガムまで加わってやがる。そいつと人質が同じ部屋にいるってのに、無傷で助け出せるのかよ」

「クルツ。だからといって、他に手はあるのか?」

「今この場でなんとかできるのはオレたちだけだ。もっと策を考えようぜ!」

「……そうだな。ただ待機するわけにもいかん。なんとか地上とも連絡を取って、いい策を練ろう」

隊長はそう言いつつも、心配していたことが的中してしまったことに眉をひそめていた。

クルツの奴、また感情を爆発させてしまっている。

スナイパーは如何なる時でも感情を押し殺し、冷徹に任務を遂行するのが鉄則だ。

クルツは、極度に集中力を高め、確実に仕留めることのできる『白い世界』を発動できる。

それが世界最高の称号を授かるまでの実力を認めさせたわけだが、スナイパーとしての弱点である、感情を露にし過ぎることもまた持ち合わせていた。

その欠点が、ここにきて露呈されてしまっていた。

やはりマリアと会わせたのは失敗だったか――



数時間が過ぎた

地上班は相変わらず交渉を続けている。しかし、犯人側がそれにまったく応えようとしない。取り合わないのだ。

あの銀髪青年が姿を現してから、誘拐犯の姿を見かけなくなった。人質を銀髪青年に任せ、自分は安全な部屋に隠れてるのだろうと思われた。

「次の食料をよこす」

地上班のネゴジエーターが、本来の要求とはかけ離れた、現状を維持するためだけの要求に応える。

次に調達してきた食料はピザだった。ピザならば食料じゃなく、箱に仕掛けを施せるということからだ。

あれから誘拐犯がまったく顔を出さなくなり、その状況が知りたくて、もう一度情報収集を試みようとしていた

ピザの箱に仕掛けたのは、集音マイクだ。カメラだとレンズで気づかれやすいが、マイクなら必要以上の穴を開けずに済む

このマイクを通して、現状の把握を試みるわけだ

「まさか、本当にピザ屋に運ばせるわけじゃないんだろ」

現場担当の刑事であるニコラスが、黒人の相棒ダートに確認する

「ああ。オレが行く」

ダートが、ピザ屋の服を用意させた荷台のある車に向かっていく

「お前が? 俺のほうがいいんじゃないか?」

「黒人のオレの方が、自然に見えるさ。下働きが多いからな」

「まあいい。気をつけろよダート。どうも誘拐犯の動向が掴めなすぎる」

「大丈夫だ。銃は持たないし、ただピザの箱を渡すだけだ。相手を刺激させるような真似はしないよ」

しかし、その車に向かう途中でダートがふと立ち止まり、周囲をきょろきょろと見回した

「どうした?」

「いや。なんか妙な感じなんだよな。なにかにずっと視られてる気がするんだ」

「犯人が様子を伺ってるのか?」

「それとはどうも違うんだよな。また別のなにかに見張られてる感じだ」

しかし、ここからでは視線の主が分からない

「神経が過敏になってるだけだ。周囲のくだらねえ野次馬どもの好奇の視線だよ」

相棒のニコラスがそう決め付けた。

果たしてそうなのだろうか。今更、そんな視線が気になってしまうとは思えないのだが

「それよりダート。あまり不自然な動きをするな。犯人に怪しまれるぞ」

「……ああ」

それもそうだ。まずは目の前のことを片付けなければ。

ダートは車の荷台に入り、そこに折りたたまれていた有名なピザ屋の制服に着替えていく

傍らにはピザの箱が三つ積まれている。それを手に持って、荷台を降りた

「ほう、なかなかサマになってる」

ニコラスがダートのピザ屋姿を眺めて、褒め言葉を口にした。あまり嬉しくない

「やるべきことは分かってるよな」

ニコラスが、しつこいくらいに確認してくる

「ああ。ピザを届けて、オレは受け取りの際に犯人の顔を拝む」

「人質に受け取らせるようなことはないだろうな。人質は一人だと分かってるし、爆弾でも取り付けてない限り、強引にこっちが連れて行けるからな」

「マスクをしてる可能性は大きいが、背丈は誤魔化せない。心配するな、うまく情報を掴んでやるさ」

ダートは玄関脇で待ち構え、交渉人が食料の調達に来たことを告げる

すると、ようやく犯人から動きがあった。ドアの鍵がカチャリと音を立てたのだ

入ってこいという意思表示だった

どこから犯人が見ているか分からない。刑事たちは玄関から離れ、ピザ屋だけだということを知らせる

さて、どう出迎えてくるか

ダートの経験では、おそらくいきなり銃を額に突きつけてくるだろう。余計な真似をさせないように

そのような事態がきても、動揺しないように、ダートは覚悟を決めていた

ドアを開け、玄関に入る

そのあとどうすればいいのかと、そこで立ち止まっていると、廊下の向こうからそいつが歩いてきた

(……誰だ?)

いきなり不測の事態に、ダートが狼狽した。

目の前に現れたのは、聞いていた犯人像とはまったくの別人だった

聞いていたのは、ニット帽を深くかぶったアメリカ人で、彫りが深く、右頬に傷跡のついた男のはずだった

だが目の前に現れたのは、それとはかけ離れた青年だった。銀色の髪と、白く透き通ってしまいそうな肌をした、穏やかな笑顔を浮かべた青年だった

情報が間違っていたのか? 犯人は一人のはずだ。それなのに、犯人の特徴がまったく違うではないか

「いい匂いをさせてるね。ピザは好きなんだ」

銀色の青年は、目をつぶって、ダートの持ってきたピザの箱から漂ってくる香ばしい香りを嗅いでいた

はっとして、ダートはピザを手渡し、玄関に背を向ける

「……では、オレはこれで」

疑惑の目で青年を見つめるわけにはいかない。今はただの事情を知らないピザ屋の配達人なのだ

ともかく、犯人がもう一人いたのなら、それを知ることができたのは大きな収穫だった

「ああ、待ちなよ」

青年が、出て行こうとするダートに声をかけた

「なにか?」

「なにかって。代金を忘れてるよ。それともまさかこのピザがタダなのかな」

「…………?」

ひどく違和感の残る台詞だった。こいつは本当に誘拐犯なのか

誘拐犯が、立てこもるための食料の代金を払うなんて、聞いたこともない

それともからかっているのか。

普通に代金を請求するべきだろうか。しかしからかってるだけならば、犯人を刺激させてしまうだけだ

意外なこの展開に逡巡していると、青年がまた呼びかけてきた

「貴方の名前と身分を言ってほしいな」

いきなり言われて驚く。だが、なぜかダートの口が、意識とは関係なしに動いた

「ハリーワンス=ダート。シカゴ警察の誘拐・強盗課所属……」

自分はなにを言ってるんだ。あっさりと身分をばらした自分が信じられない

「なるほど。それで。このピザにはどんな仕掛けをしてるのかな?」

「……箱の内側、二重壁の中に集音マイクを仕掛けている」

なにをしてるんだ。なぜオレは自分でバラしてるんだ。

まったく意思が働かない。自分の口が自分のものでないみたいだ

オレは、こんな間抜けな尋問にあっさりと屈してしまっている

「マイクね。邪魔だから、処分して」

すると、ダートの手がピザの箱に伸びた

まさか。口だけではない。オレの手も、勝手に動き出した

ダートの手が、ピザの箱を開けて、その内側の容器をべりべりと剥がしていく。その中に、固定された集音マイクがさらけ出された

さらにダートはそれをひっぺはがし、スイッチを切って、床に叩きつけた

マイクはショートした音を出して、煙をふいた

「ご苦労さん。それじゃ、行っていいよ」



数分たって、ダートが玄関から出てきた

「ようし、よくやったダート」

ニコラスが駆け寄って、成功したのだと思って声をかけた

「…………」

なぜか、そのダートの目の照準があっていなかった

「ダート?」

「ん? ああ」

「どうだった。犯人の顔は見れたか?」

「犯人の顔……? 犯人の顔……どうだったかな」

「……おい? どうしたんだ、ダート」

ダートの様子がおかしいことに気づき、ニコラスが真正面から頬をぴしゃぴしゃと叩く

「う……なにしやがる」

鬱陶しそうに、ダートがその手を跳ね除ける

「おかしいのはお前だぞ、ダート。犯人の顔とかなにか見なかったのか?」

「顔……? どんな顔をしてたっけ」

ダートは額を指で押さえて、その場にうずくまった

「う……中の様子……なにも思い出せない」

「おい、ダート。ダート!」

近くの署員たちの手を借りて、ダートを安全なところに運んでいく

彼はひどく汗だくになっていた。タオルをあて、落ち着くのを待つ

「なにがあった、ダート。説明しろ」

「分からない。見たような気もするが、そうでもないような」

完全にダートは混乱していた。なにかクスリでも嗅がされたのだろうか。それを懸念して、救護を要請しておいた

「くそっ。結局なにも掴めず、か」

すぐ目の前にあるはずなのに、ニコラスにはそれがまるではるか遠くの要塞に見えていた



「やっぱ、地上班の奴らじゃどうにもならねえな」

ずっとニコラスたちの動きを見ていたミスリルの一人が、かなり後方の建物の屋上で言った

「誘拐犯一人のままなら、強行で人質をかっさらえるのにな」

「さっきからどうもおかしくねえか。誘拐犯はなぜぷっつりと姿を見せなくなった」

「レナードの野郎は、相変わらず窓からこっちを見てやがる。忌々しい」

しかし、ライフルで狙おうとすれば、奴との目が合って、瞬時にして催眠にやられてしまう

クルツの白い世界も、今ではなんの意味もなかった

「奴の姿が見えていながら、手出しができねえ、か」

スナイパーは、相手の姿をいかに照準におさめるかが勝負を決するというのに、すでに姿を晒しているレナードには、その常識が根底から覆されていた

「要するに、レナードの野郎が目を開けられない状況にしてやりゃあいいんじゃねえのか」

「どうやってだ」

「色々あるだろう。催涙弾とか、閃光弾とか放り投げてよ。そうしたら目を閉じて、こっちはその隙に射殺する」

「…………」

その提案は、有効なのではと思われた

だが、隊長は少し考えて、首を横に振った

「却下だな」

「なんでだよ」

「催涙弾で、レナードが目を開けられなくなったとしよう。だが、奴は手元のスイッチを押すだけで、人質を殺せるんだぞ。押す時間を与えてはだめなんだ」

「同時に、奴を狙撃しちまえばいいじゃねえか。催涙弾発動と同時に、狙い撃つんだ」

「できるのか? 催涙弾で煙が部屋を覆った中、奴の姿を正確に」

「ぐっ……」

「閃光弾も同じことだ。同時にスコープを覗き込んでも、こっちも目が眩むだけだ」

そして光が収まるころには、充分に向こうにスイッチを押す余裕を与えている、というのは言われなくても分かることだった

向こうが目を閉じて、こっちは相手の姿をしっかり捉えることのできる状況。それを生み出す策が出てこない

時間だけが、無常に過ぎていった




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