闇に葬られた過去 5相良宗介は、別階の、小さな休憩所で一人、立っていた 「ここにいたんですね」 そこに入ってきたのは、千鳥かなめだった 「千鳥……」 千鳥は、その休憩室に入り、宗介の横の壁にもたれた 「どうし……たんですか?」 すると宗介は、相変わらず暗い表情でぽつりとつぶやいた 「ちょっと……嫌な昔を思い出しててな」 それを聞いて、千鳥の胸が締め付けられた 「…………」 「どうした、千鳥」 急に押し黙る千鳥に、宗介が聞いてくる やっぱりだめだ このまま黙っているなんて、あたしにはできない 「あの……」 千鳥は、宗介の正面にまわって、告げた 「あたし、聞きました。ソースケの昔の話……」 「――!」 「すみません。出過ぎたマネだってことは分かってます。でも。だから、あたしには言ってください」 「なにをだ」 「……あたしには、いろいろとぶつけてほしいんです。そして全部聞いて、それから言ってあげますから。それはあなたのせいではないって」 「黙れ」 そう言い放った宗介の声の低さと、その冷たい目に、びくっと千鳥は身をすくませた 「お前に、なにが分かるというんだ」 「た、たしかにあたしには分からないかもしれない。でも、これだけは言えます。ソースケのせいじゃないって」 「違う。俺が殺したんだ」 「やめて。どうしてそう言うんですか。ソースケだって分かってるでしょう。催眠に操られてて、どうしようもなかったってことぐらい」 「……どうしようもない?」 すると、宗介はふっと笑った 「……え?」 「千鳥。お前もさっき、テッサから説明されただろう。催眠に対抗できる手段はあると」 催眠に対抗する手段 たしかに言っていた。 それは、自我を強く持ち、抵抗する意思を持つこと 「それが、どう関係あるんですか?」 「俺が父と母を刺すとき、心の中で何度もやめてくれと叫んだつもりだった。だが、本当にそうだったんだろうか」 「……え?」 「俺はあの時、何度も心の底からやめてくれと願っていたつもりだ。だが、結局俺は刺し殺すのをやめなかった。そうなってしまったのは……俺が、本当は心のどこかでやめることを望んでなかったのかもしれない」 「な、なに言ってるんですか!」 「俺は本当に、父を、母を助けたかったのか。心の底から、そうなることを願ってなかったのか。……俺は、父と母が死ぬことを止めたかったのか」 「そんな! 六歳の子供だったんでしょう。催眠術に抵抗できなかったのは仕方ないじゃないですか! 止められたかどうかなんて分からないじゃないですか!」 「だが! 止められなかったかどうかも分からない!」 だんっと、壁を拳で叩きつけた 「俺は……俺が殺したんだ。父と母を、俺が殺したんだ!」 宗介は、その拳をぎゅっと握った 「父も母も、俺を大事にしてくれていた。とても愛してくれていた。だけど俺はそれを裏切ったんだ。あんなに愛してくれた父と母を、俺は殺したんだ」 宗介は、泣いていた 初めて千鳥の前で、泣いていた 「ソースケ……」 「俺は殺したも同然なんだ。俺が、弱かったから……」 「違いますよ」 千鳥は、震える宗介の肩を、そっと抱いた 「ソースケは弱くなんかないよ。だってソースケは、ずっと生きてきたじゃないですか」 「……?」 「あたしだったら……。あたしだったら、とてもその過去を背負って生きていけない。弱いから、そこで終わりにしちゃうと思う。でも、ソースケは強いから。だからそれを背負って、これまで頑張って生きていけた」 だが、宗介はどんと千鳥の肩を押し、突き放した そして遠くを見るような目で、宗介は言った 「……俺は強くなんかない。俺は本当は、あの時に死ぬつもりだったんだ」 「……え?」
暗くなった住宅街に、パトカーの赤いサイレンが照らしていた そこは相良邸の前の道路 血まみれの六歳の宗介の姿を見た主婦が、パトカーと救急車を呼んだのだ 近くの警察がその通報で、相良邸の周辺を封鎖して、年季の入った刑事がその前で立っていた 「ホトケさんは二体か?」 近くの若い刑事が、それに答える 「はい。身元はこの家の住人である、相良夫婦です」 「さきほど遺体を見てきたが、むごいもんだな」 「ええ、吐きそうです。三十箇所以上の刺し傷なんて、もうぐちゃぐちゃですからね」 と、顔をしかめてみせた 「通報したのは?」 「近くに住む主婦です。なんでもこの家から、血まみれの子供が出てきたとかで」 「子供?」 「被害者である相良夫婦の一人息子、相良宗介です。その子についてた血は、全部夫婦の血だったので、あの子は大丈夫です」 「今、その子は?」 「あそこです」 現場から少し離れたパトカーにもたれるようにして、毛布をくるまって座っていた 「よほどショックだったのでしょう、話し掛けてもまったく反応がありません。しばらく置いて、気持ちを落ち着かせてから、署に連れて行って聞こうと思っています」 「可哀想にな。両親を殺されたんだ」 「ええ……」 「刺し傷か……。一人は背中、一人は腹と胸を中心にか」 「猟奇殺人の線でしょうか」 「凶器のナイフは、鑑識にまわしたのか?」 「ええ。さきほど検証に送りましたよ」 「そうか」 「その凶器なんですが、少しヘンなんです」 「ヘンだと?」 「指紋は出たのですが、その指紋、やけに小さいんです」 「小さい?」 「ええ。まるで、子供の指紋のような……」 そこまで言って、ちらりとパトカー近くで座っている子供を見やった 「まさか……」 「私も信じられませんが、しかし状況証拠は、それくらいしか……」 それを聞いて、近くの封鎖地帯の見張りに当たっていた巡査たちも、どよどよとどよめいた 「おい……。じゃあ……」 「ああ。ひょっとすると、あのガキが……」 「世の中、キレる子供が多くなってきたというが……」 「あんなガキが……」 「おっそろしいガキだぜ……」 しだいに、警察官の間に、六歳の宗介を見る目に、軽蔑と侮蔑が混じっていく 「よさないか! 相手は子供だぞ!」 嫌な悪態をつきだした警官に向けて、一人の男による怒鳴り声が響き渡った その一言で、罵声はかき消え、それぞれが仕事に戻った その男に、警部が近づいて、声をかけた 「カリーニンさん。わざわざロシア警察から指導に来日してくださったのに、ここに出向かなくても」 「いや。これはわたしにとっても、非常に気になる事件なんでな」 「そうですか」 そしてカリーニンは、そこにいた刑事たちを引き連れて、より詳しい事情を知ろうと、相良邸の中に入っていった
頭がぼーっとして、なにかを考えるのも嫌だった なんだろう、さっきから赤い光がまぶしい 宗介の目は、しだいに目の前にある家に向いた ボクの家だ……戻らなきゃ…… お母さんが、晩飯をつくって待ってるんだ お父さんが、ボクの頭をなでてくれるんだ どうしてボクはここにいるんだろう……? その時、宗介の家から、毛布にくるまれたものが外に運び出されるのが見えた その毛布から、ちらりと顔が見えた お母さん! その口から血が垂れて、まったく生気のない目だった 「……あ」 思い出した お母さんが……死んじゃった お父さんも、動かなくなっちゃった どうして……? その時の宗介には、もうこれからお母さんやお父さんと会うことはできない、触ることができない、これまでのように一緒に過ごすことができないと分かった もう、お母さんの料理を食べれない もう、お父さんと遊園地で遊べない どうして? ――ボクがやったんだ ボクが、殺した そして宗介の目に、またあの時の光景が映し出された ざしゅざしゅと、ナイフで刺す感触 次第に動かなくなっていく、父と母の姿 『やめて、ソウスケ』 やめてと言われたのに、止められなかった自分 血に染まっていく、自分の手 「あ……あっ」 ボクのせいだ ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい すると、その視界に、道路に落ちていた割れたガラス破片が見えた そして宗介は無意識にそれを拾っていた ガラス破片の尖った部分を、自分に向ける これを……ボクに刺せば、お父さんとお母さんのところに…… そして宗介は、ガラス破片を自分のノドめがけて突き刺した 「やめろっ!」 だが、寸前で宗介の腕が、強い力ではね退けられ、ガラス破片は地面に落ちて砕けた その宗介の腕を振り払ったのは、カリーニンという男だった ……誰? ぼーっとしたうつろな目で、そのカリーニンを見つめる すると、カリーニンは宗介のアゴを持ち上げ、その目を覗き込んできた 「……やはりか」 そしてぎっと、下唇を噛んでいた 「……?」 訳がわからない宗介に、カリーニンはじっと見据えて、こう言ってきた 「いいか。よく聞くんだ。これは催眠のせいだ。操られていたんだ」 さい……みん? 「おまえにそれをさせたのは、クライブ。クライブ・テスタロッサ」 くら……いぶ。てすた……ろっさ 宗介は、その名前を深く刻み付けた 「意思を強く持て! ここで死んではならない」 「……どう……して?」 死ねば、お母さんといっしょにいられるのに。お父さんと遊べるのに 「いいか。おまえがするべきことは、死ぬことではない。おまえは生きなければならない」 「だって……。だって、ボクお母さんのところに行きたい」 だが、カリーニンは首を横に振った 「それは父や母は望んでいない。死んだら、母は悲しむぞ」 「お母さんが……泣くの?」 「そうだ。男なら、母を泣かせるものではない。男なら、自分のするべきことをやるんだ」 「……だって」 それでもぐじゅぐじゅと泣き続ける宗介に、カリーニンはひとつの提案をした 「わたしと約束しよう」 「約束?」 「そう。おまえにこういうことをさせた悪い奴、クライブ・テスタロッサはわたしが必ず倒す。だからおまえは生きると約束しろ」 「悪い奴を、倒す?」 「そうだ。おまえの父と母にひどいことをしたヤツを倒してやる。これは男の約束だ」 「…………」 「約束しろ。死なないと」 「……うん」 そううなずくと、カリーニンは一度だけ、力強く抱きしめてくれた それは、父親のようだった
「カリーニンさんが止めていなかったら、俺はあの時に死んでいたんだ」 「…………」 「俺はあの人に感謝している。俺があの時に死んでいたら、俺はきっと両親に顔向けができなかったろう」 「そして、両親の分まで生きると決めたんですね」 「両親の分まで? 何の話だ?」 「え? だって生きることが、するべきことなんでしょう?」 「ああ。最初は、どういう意味か分からなかった。ただ生きるだけで、それがなにになるというのか。俺はそれから考えたが、まったく分からなかった。そしてその日、あの事件の後に眠って、それがやっと分かったんだ」 千鳥には、宗介の言いたいことが、まったくわからなかった 「なあ、千鳥。お前は、どんな夢を見る?」 「え? 夢って寝てる時の夢ですか? それは……空を飛んでたり、ブタさんと走ってたり……いろいろですけど」 「そうだろうな。だが俺は、たった一つしか夢を見ないんだ」 「……え」 「その夢は、あの起こした事件の再現だ。俺が父と母を刺し殺し、自分の手が真っ赤に染まっていく。その悪夢だけしか見なくなった」 「そんな……」 「小さい頃は、その夢を見るたびに何度も吐いた。頭痛がひどくて、一日中身体が動かないときもあった。この悪夢を、俺はあの六歳の頃から、ずっと見続けているんだ」 その悪夢で吐くことは、今でも度々あるくらいだった 「夢を見ると、必ずこの悪夢だけが襲い掛かってくる。そして理解したんだ。これが、俺のするべきこと。償いだってことがな」 「悪夢を見ることが……償い?」 「あの悪夢は、いくつになっても気分が悪い。苦しくなる。そう。俺は苦しまなければならないんだ」 「なに言って……」 「俺は両親を殺した。その罰として与えられたのは、死ぬまでずっと悪夢を見続けて苦しむことだ。自分から死んではならない。それは、罰から逃げることになるからな」 「なんでそんなこと……言うんですかっ」 ぼろぼろと、千鳥はその涙を抑えられなかった 「どうして。どうしてそんな風にしか考えられないんですか」 「カリーニンさんは、俺のするべきこと、償いがあることを教えてくれた。本当に感謝している」 「違いますっ!」 あまりの自虐に、千鳥は怒鳴っていた 「千鳥……?」 「違います。カリーニンさんはそんなことを言いたかったんじゃない。カリーニンさんは、ただソースケの命を大切にしてほしいって……」 「……? だから生きてきてるだろう。悪夢を見続けるために」 「……っ。ソースケは……そんな生き方でいいんですか?」 「俺はもう、六歳のあの時に終わったんだ。俺は、六歳の子供に必要だった家族というものを、自分の手で捨てたんだ」 「二十一年も……二十一年間も、そんな生き方をして……。まだそれをやめようとは思わないんですか」 「……俺だって、いい加減疲れてるさ」 「え?」 「何度も、辛いと思った。逃げたいとも思った。悪夢を見るたびに、父も母も、俺を責めてくる。何度も、何度も」 それは宗介の見せる、初めての弱音だった 「逃げたいとも思った。楽になりたいと思った。そして……」 そこで、宗介は服の袖をめくりあげた 初めてあらわになった宗介の左腕。そこには、いくつもの横傷がつけられていた 「――!」 その傷の多さに、千鳥は思わず息を呑みこんだ それは自殺未遂者によく見られる、切り傷の痕だった 「――これは、俺の弱さだ」 傷口はどれも古く、ふさがっていたが、そのいくつかはほとんど致命傷に近かった 「だが安心しろ。もう今は、死ぬ気はない」 宗介は、袖を下ろし、続けた 「もう逃げない。俺にはやることがあるからな」 「やること……?」 「これを言ったら、千鳥。お前は俺を軽蔑するだろう。だが、言おう」 そして宗介は、あの犯罪者を憎む冷たい目になっていた 「俺が警察に入ったのは、正義感だとかそんな大層な理由じゃない。……復讐のためだ」 「復讐……」 「俺は許せなかった。自分も許せないが、なによりクライブ・テスタロッサ。あいつは許せない」 相良宗介の父親を殺すために、宗介を暗殺者に仕立てた張本人、クライブ。 宗介の人生を狂わせた悪魔 「そして俺は復讐のために、あいつを追うことを考えた。しかし、あいつを追うことがどれだけ難しいか、思い知らされた」 「だから……」 「ああ。だから俺は、人探しのしやすい警察に入ることを決めた。犯罪者の情報が真っ先に入るからな」 宗介はその時を思い出したのか、ため息をついた 「面接は大変だったぞ。復讐という動機を隠し、己を殺してきた。ただ、本当に入れるかどうかは分からなかった。幼くても、人を殺めたからな。だが、なぜかは知らんが俺は警察に入ることができた」 「でも、クライブは……」 「そうだな。クライブは死んでいた。そしてその時、カリーニンさんの約束を思い出した。あの人が、約束を守っていた。約束を果たしていたんだ、と」 それはいろいろと、複雑な心境だったことだろう 「まあ、いろいろあったが、それでも俺はカリーニンさんには感謝している」 さきほどのミスリルでの再会を、たしかに宗介は心から喜んでいた 「俺は、人並みの幸せはいらない。望むものがあるとすれば、それは情報だ。あいつに関する情報が欲しかった。そしてミスリルで、また大きな情報を得ることができた」 「それは……レナード・テスタロッサですか?」 「ああ。俺はそいつを殺す。テスタロッサ一家を潰すまでは、もう死ねない」 「殺す……なんて。クライブはたしかに悪い人ですけど、レナードはそれとは……」 「千鳥。テスタロッサが生きているということは、それだけで世界中の人々が人質に取られてるということだ」 「世界中が……?」 「奴らの催眠術は底が知れない。奴が生きているだけで、いつでも、誰でも操られる状況にあるんだ。奴がその気になれば、誰でも暗殺者に仕立てられ、その人生を狂わせられる。もう、そんなことはさせやしない」 「…………」 「奴への復讐は、俺にとって生きている目的だ。だから、千鳥。俺の復讐を止めるなよ」 相変わらずの冷たい目で、じろりと睨みつける 「俺の復讐を邪魔する奴は、誰であろうと殺す」 その目は、真剣だった そして宗介は、話は終わったとでも言うように、一人休憩室を出て行った
「…………」 千鳥は、そのまま一人、泣いていた 悔しかった 自分は、苦しむ人を助けたいと思っていた でも、こんなにも身近に、こんなにも苦しんでいる人がいたというのに、そのことに気づけなかった ずっと、救いの手を求めていたのに それに気づくことができなかった自分が悔しくてたまらなかった
宗介に、なにも声をかけてやれなかった (あたしに、なにができるの?) なにをしてやれるのか、千鳥にはまったくわからなかった
――あたしに、なにができるの |