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一日署長は毒舌アイドル


(第三話:『崩れゆく理想郷』と第四話:『スナイパーの見る夢は』の間の時間軸です)



 泉川署交番。

 その中で、宗介は今日もまた、いつもと変わらず始末書を書かされていた。

 数時間前、通報を受けた宗介は万引きの少年を捕まえた。それだけならいいのだが、反省をおくびにも出さず、ゲームに失敗したと舌打ちしたその少年の腕を、背中後ろにまわし、そのままボキリと折ってしまった。

 おかげで少年は万引き犯から被害者に変わり、宗介は過剰行為の叱責を受けたわけである。

 これで今月に入って三十回目の反省文代わりの始末書。

「本当に毎日よくやりますね、先輩」

 対しての千鳥は、道で子供同士のケンカを見かけて仲裁に入り、やられてた子の無くした物を今まで一緒に探していた。二時間も。

「千鳥こそすぐ面倒事に首をつっこむのを少しは自重したらどうだ」

「いいんです。わたしは人のために役立てることをするのが好きなんですから」

 千鳥も本来なら警視庁の人間のはずなのに、交番勤務が合ってるような気がするのは気のせいだろうか。

 二人の言い分を聞いていたクルツは、間の椅子に座ってくつろぐ格好でやれやれと手を振った。

「どっちもどっちだろ。オレだったらスルーしてなにもなかったことにするけどな」

「それはだめでしょ」

「それはどうかと思うぞ」

 二人にそろって睨まれてクルツがバツが悪そうに肩をすくめたところで、交番に声がかかってきた。

 来訪者は一般市民。道でも尋ねてきたのか、どこかで事故でも起きたか。

 一番手近にいた宗介が、始末書の手を止めて入り口に向かった。来訪者は男で、背中にでっかいリュックサックを背負っていた。

 一分ほど宗介はその男とやりとりを交わす。千鳥は自分の書類仕事。クルツは隠し置きしていたプラモを組み立てていた。

「千鳥」

 宗介に呼ばれ、なんですかと返す。さっきの来訪者はまだ入り口で立っていた。

「話を聞いてやれ。千鳥の好きな、困ってる人だぞ」

 親指でくいと入り口を指す。中の椅子にどうぞと勧めると、男は汗をぬぐいながら中に入ってきた。

「はあ」

 自分にしかできない相談事なのだろうか。とりあえず書類を横にやって、宗介に代わって応対の机に座った。

 男は身を乗り出して、すがるような目つきになる。

「聞いてくださいよぉ」

 何滴か汗と唾が飛んできたことには、なんとか不快な表情を押し隠し、仕事で鍛えた『優しい警察官の笑顔』をつくる。

「ぼくのアミちゃんが生産中止になっちゃったんですよぉ」

「えっと……知り合いが行方不明になったんですか?」

「そうじゃないよっ、アミちゃんが……」

「そのアミさんというのは、猫かなにか?」

「知らないのっ? 魔法少女アミィーのことだよっ。今流行りだろっ」

 名前の雰囲気からして、アニメかなにかと思われた。少なくとも、詳細を千鳥は知らない。

「それで?」

「アミちゃんの人形がいきなり作られなくなったんだ。嫌だったけどバイトでようやく金が溜まったってのに、生産中止が決まっちゃって。もう店頭ではどこでも売り切れてるし、オークションはとんでもなく高額になっちゃって手が出せないしさあ」 

 事情は大体飲み込めたが、はっきりいってこれは警察がどうにかすることではない。

「あのー。そういう苦情をここでされても……」

「なんだよっ、ケーサツは市民の苦情を聞くもんだろっ」

 苦情ではなくただの愚痴でしょうが。その言葉は作り笑顔の下に押し隠した。

「ぼくの税金で給料もらってるんだろっ。ねえ、だからさあ。ぼかあメーカーに問い合わせたのにさあ……」

 こっちを無視して、また一人で愚痴に入る。

 信じられないだろうが、こういう筋違いの苦情は少なくない。

 これもまたよくあるお門違いケースだが、手荒な真似はできない。

 公務員である警察官としては、ちゃんと対応せねばならない。心中で深いため息をついた。そして宗介の意図に気づいてぎゅっと拳をつくった。

 あんにゃろめ。面倒事をおしつけやがったなぁ



 アミちゃんの愚痴は一時間も続いて、向こうの気が晴れたのかようやく引き上げた。向こうとしてはただ聞いてほしかっただけのようだ。後は自分で勝手にメーカーに苦情の電話でもしてくれるだろう。

 彼が去ったのを見送ると、千鳥はぐってりと机の上に突っ伏した。厄介事を押し付けた張本人、相良宗介は始末書をとっくに書き上げて、パタパタとクリップボードを内輪代わりに扇いでいる。

 人に暑苦しい人の対応をやらせておいて、自分は涼しげに。今度お茶を出すときにクルツの机の下にたまったホコリでも仕込んでやろうかしら。

 そんなささやかな復讐を考えていたとき、用事で本部に赴いていたクルツが戻ってきた。

「おーい、二人とも。本庁から呼び出しがあったぞ。署長室に直々に来いとさ」

 クルツの知らせに、二人は顔を見合わせた。



「毒舌アイドル?」

 署長室の中に入り、署長の机の前に立つと、さっそく任務を伝えられた。

「そう。知らんかね、稲葉瑞樹。最近流行の毒舌アイドル、イナバ君だよ」

「知りません」

「あたしも、最近の芸能事情はよく……」

 二人の無知を知るや、署長は軽く額を押さえた。

「とにかくだ。アイドルのイナバ君が今日の午後から、ここの一日署長をやることになっててね」

「一日署長、ですか」

 一日署長。有名人が宣伝で使うイベント。

「その一日署長である間、彼女の護衛を君達に任せたい。まあ、護衛というよりも、世話役に近いだろうが」

 ようするに、面倒事を、地域課の下っ端の自分に押しつけようということらしい。そんなことにウチの部署の人員を割けられんとでもいうように。

「それを、自分たちだけでですか」

「いや、他に交通課からも一人まわしてある。後ほど合流するはずだ」

 宗介は交通課にはあまり面識がない。千鳥はよく本庁に出向いて、いろんな部署と交流を取っているから、千鳥なら知っているかもしれない。

「名前は?」

「若菜君だ」

「知ってるか?」

 千鳥の耳元に顔を寄せ、尋ねてみる。

「いえ」

 千鳥も知らない。そのことに署長は頷いた。

「そうだろうな。彼女は最近まで謹慎を受けていてな」

「……謹慎?」

 内容を尋ねたが、それには答えなかった。

「復帰そうそう、大事な仕事を任せるわけにはいかんのでな。しばらく君たちと行動を共にしてもらいたい」

 一日署長の護衛は、大事な仕事の部類には入らないのか。その毒舌アイドルとやらは、まだとりたてて有名というわけではないようだ。

「分かりました。承ります」

「あのー。それ、わたしも必要ですか?」

 宗介がすぐ了承したのに対し、千鳥は小さく挙手して聞く。

「いや。任意参加でかまわんよ。若菜君を加えて二人もいれば十分だろうし。なにか別に仕事を抱えてるなら、そっちを優先して構わない」

「はい。ではそうさせてもらいます」

 あっさりと千鳥はこの仕事を下りた。

 かくして、一日署長の護衛は宗介と若菜の二人だけとなった。



 本庁を出た先で、宗介はさっそく千鳥の不参加の意を問いただした。

「別に。ただ、他の事をしてる方がずっと有意義だと思いましたし」

「……それだけか?」

 不満気に問い返す宗介に、千鳥はつんと言い返す。

「あら。なにか文句あるんですか? 相良先輩は面倒事はお嫌いですか?」

「…………」

 さっきの交番でのことをまだ根に持っているらしい。宗介は文句を言い返す立場にはなかった。



「合流場所はここだと聞いたんだがな」

 駅前の噴水広場。石でできたベンチの前に立って、辺りを見回す。婦警らしき姿はまだ見かけない。

 アイドルのイナバもここで落ち合うことになってるはずだが、両方とも遅れているようだ。

 五分ほど腕組みした体勢のまま待っていると、一台の車が近くで止まった。白いワゴン車から、長身で細身の男性と、質素だが色合い鮮やかなファッションで身を包む女性が下りて、こっちに近づいてくる。

「あのう。警察の相良さんですよね」

 そうです、と返すと男は姿勢を正した。

「私はマネージャーの黒木と申します」

 細身の男性が自己紹介をはじめて、隣の女性もそれに続けさせた。

 しかし、彼女の一言は。

「あんたがアタシの下僕?」

 いきなりの下僕呼ばわりだった。宗介は不快を隠さず眉を思いっきりひそめる。

「イナバ君。まだ仕事じゃないんだから、毒は控えて」

 マネージャーにたしなめられても、彼女は悪びれたそびれもなく、ぷいと横を向いた。

 ……なんだこいつは。

 初対面に対して、下僕呼ばわり。法律に照らせば侮辱罪に当たる。

 毒舌アイドルとか言っていたが、単なる礼儀知らずの阿呆ではないか。

 俺は下僕呼ばわりしたこいつを護衛せねばならんのか。

 逮捕なら喜んで今すぐに腕を取って地面に叩きつけてねじり上げて悲鳴を上げさせてやるところだ。

「うわ、なにコイツ。顔怖ッ」

 イナバは嫌悪感露わな宗介の顔に大袈裟に怯えて、マネージャーの背に隠れた。

 マネージャーもなぜか蒼白になってはいたが、気を取り直してさっそくスケジュール帳を取り出し、打合せに入った。

「それではこの後、最初の挨拶として本庁に向かい、私はそれから本屋のセッティングに行ってきます。相良さんはイナバ君と共に、一日署長の手伝いをお願いします。八時にお迎えしますので」

 大まかなスケジュールはこうだった。

 本庁で、一日署長としての挨拶。そのときは雑誌の記者などが同席し、軽くコメント。

 そのあと、決められた道路をパレードとして来客用のパトカーで走行。

 署長の制服のまま、ファンサービスとして本屋で、写真集を購入した人限定でサインをすることになっている。

 合間にいくつか休憩を挟んで、それを一日でこなすことになっていた。

 宗介はその間、若菜と共に常に傍にいて、手伝いを兼ねた護衛をするわけだ。

「ねえ、シモベ。もう一人いるんじゃなかったの?」

 若菜の事を言ってるらしい。

「そのはずだが、まだ合流できていない」

「ちょっと、迅速にやってよねー。こちとら超アイドルのイナバちゃんなんだから、やることはいっぱいあんのよ。足引っ張ったりしないでよね」

 軽く頷くだけのやる気のない返事をしてやると、道路の向こうからギャギャギャとなにかを擦るような音がした。

 それはパトカーだった。小型タイプのパトカーが、交差点をドリフトで無理矢理曲がってくる。二回、三回とタイヤを滑らせ、ギャギャギャと地面を擦らせていた。

「な、なに?」

 ひどく乱暴な運転のそれは、目の前を強引に通過したところで、一気に激しくブレーキをかけ、宗介とイナバの間で止まった。

 運転席のドアを開けて出てきたのは、婦警だった。交通課の制服を着ているが、ひどく乱れている。

「ぷはぁーっ。ああーっ、ったく。やっぱ公道でドリフト決めると気持ちいいわねーっ」

 久々のシャバの空気だぜ、とでもいうようにうーんと背伸びした。そしてこっちの二人に気づくや、腕時計を確かめた。

「あれ? 少し遅れたのかな。ま、いーや、五分の遅刻なんて有って無いようなもんだし」

「……えーと」

 言葉を失う宗介とイナバに、その婦警は敬礼の形をとった。

「若菜です。一日署長の護衛を任されました」

「……あんたがもう一人の護衛?」

 イナバが思いっきり怪しそうに若菜を眺める。

「あ、アイドルのイナバちゃんでしょ。ええ、任しておいて。たとえビルの屋上でテロが攻めてきても、ダイ・ハードばりにあたしがあなたを抱えて飛び降りてみせるから」

「いえ。心中は一人でやって」

「…………」

 こっちもまた、疲れそうな人だ。それを知るや、宗介のため息がより一層重いものになった。



 宗介の運転で、アイドルのイナバ、婦警の若菜を乗せて本庁にまで走らせる。

 まずは一日署長としての挨拶がある。玄関前にはすでにそのための準備が始まっていて、赤い絨毯に高い段差の簡易足場、そして記者が集まってきていた。

 少し離れたところでイナバを下ろし、車の管理を若菜に任せて宗介は着替えの場所まで一緒についていった。

 先に更衣室を覗いて誰もいないこと、盗撮されてないことを確認すると、入り口前に出て、イナバの着替えを待つ。

 なぜか着替えに三十分もかかってようやく出てきたイナバは、警察制服に身を包まれていた。プロポーションはいいらしく、制服越しでも体型がはっきり出ている。普通の警官制服と違うのは、名前が入っていないのと武器を携帯するためのケースがついていないことだ。

「どう?」

 軽くアイドルらしいポーズをとって、宗介に感想を求めてくる。

「…………」

 制服を身に纏っても、警官らしきオーラが感じ取れない。ただ制服を借りてるだけの、コスプレした女性程度にしか見えなかった。

「ここまで威厳のない警察官というのも珍しいな」

「それって、誉めてないよね?」

 どっちかというと、誤逮捕を出しまくって周りの負担を増すだけのような気がする。宗介はそう付け加えようとして、やめた。

「まあ、今回のイベントは中身は求めていないから大丈夫だろう」

「うっわ、さらに失礼! ねえ、あんたアタシの護衛でしょ。なんか世辞でもいいから誉めてみなさいよ」

「大丈夫だ。制服だけは立派な警察官だぞ」

「死ねッ!」



 背中を蹴たぐられても、護衛は果たさなければならない。署長命令がなければ暴行で逮捕してるところだ。

 宗介はむすっと不機嫌顔のままで玄関ホールへと移動する。予定では、そこでイナバが軽くパフォーマンスをして、一日署長の挨拶、そして記者会見となっている。

 そのはずなのだが、玄関ホールに出ても警察官以外、ほとんど誰もいなかった。

 普通、一日署長のイベントには誰かしらファンが押しかけて見に来るものだが、誰もいない。

「これだけ人気がないアイドルというのもまた珍しいな」

 つぶやくと同時に、ほっとしていた。

 こんな女がアイドルとまで詠われていて、世の中は本当にどうかしてしまったのかと危惧していたが、まだまだ世間はまともらしい。

「な……なんでよっ」

 イナバは、憤然として辺りを見回す。記者どころか、人が一人もいない。

「しかし妙だな。観客がいないのはいいとしても、誰も出迎えがないとは……」

 普通なら、本庁の誰かか、舞台をセットしたスタッフが待機していたり、迎えにきたりしそうなものだ。

 怪訝に思っていると、向こうから一人の青年が駆け寄ってきた。青年は息を切らしつつ、その腕を取る。

「なんでこんなところにいるんですか。場所はあっちですよ」

「……え?」

 場所を間違えていただけだったらしい。

 建物の反対側にまわると、そこに人の群れがいた。

「こんなバカな……」

 十人どころではない。記者や警察官を除いても、ざっと三十はいる。

 この人数が、まさかあの女のためにわざわざ集まったというのか。

 世に失望していると、本物の署長がイナバに近づいてきた。

「やあどうも、こんな暑苦しい所へわざわざご苦労さんだね」

「大丈夫。あんたの顔よりは暑苦しくないから」

 署長へのまさかの暴言に、宗介は一瞬凍り付いた

 だが、言われた署長本人は、ふっふっと笑い飛ばす。

「さっそく出たね、イナバちゃんの毒。やはり生で聞くとひと味違うよ」

 なぜか、二人の間に険悪な空気が無い。宗介はそれをいぶかしく思ったが、さほど興味も覚えなかった。

 署長に背中を押され、イナバは一段高い足場に上がり、通りのほうに顔を向ける。

 集まっていた群れの男たちが、そこで勝手に盛り上がって歓声を飛ばした。

「はいぃ。みんなぁ、あたしのために集まってありがとねー。といっても、あんまりイケてない面々ばかりだけど」

「おおーう、イナバちゃあん」

 酷いことを言われたはずの男達は、それでもなぜか恍惚の笑みを浮かべて喜んでいた。

「分からん……」

 彼女を取り巻く世界の異質さには、とても理解が及びそうもなかった。



 男の黄色い歓声が三十分ほど続いたところで挨拶を終えて、近くに場所移動して記者の質問の時間が始まる。

 その間、宗介と若菜は後ろに下がって待機していた。 

「あーんな小娘が一日署長とはね。今話題だかなんだか知らないけど生意気な」

「ん?」

 隣で若菜がいきなり愚痴りだす。独り言なのか自分に向けて言われたのか分からないが、とりあえず聞き返した。

「あたしの野望はね。署長の地位に上り詰めて、この世の秩序を自分の好みに変えてやることなのよ。それがなに? あの子はただアイドルってだけで、その権限を手にしやがったのよっ?」

「……一日限定でな」

 さらに言えば、本来の署長の持つ権限とはまったく別物だ。事件の指揮は執らせないし、命令権もなければ責任なんてものもない。

「休憩中を襲ってこっそり入れ替わってやろうかしら」

 本当に警察官なのか疑いたくなる発言に、なんとなく彼女と距離を取っておいた。



 記者会見は思ったより長く続いた。本当に今流行りらしく、質問数が多い。

 それだけこっちはじっと待つことになるので、退屈で仕方がなかった。護衛といっても、気をつけるべきファンはすでに解散している。ここには参加を許された記者とスタッフしかいないのだ。

「ちょっと。そんなにボーっとしてないでよ。もっと気ぃ張ってなさいよね」

 いつの間にかイナバがミネラルウォーター片手に傍に来ていた。

「終わったのか?」

「まだよ。あと二局。ちょっと休憩とってるの」

 まだなのか。うんざりして腕時計に目を落とす。あれから一時間をゆうに超えている。

「だらけないでよ。ちゃんとしてよね。アタシの護衛があんたの仕事でしょ」 

「分かっている。だが、やけに気にしてるな」

 なんだか妙にギスギスしている。確かに迷惑なファンはいるが、彼女はやけに過敏になっている。

「そりゃ気になるわよ。こっちは脅迫状を送られてんだから。たまんないったら」

「……脅迫状?」

「聞いてないの?」

 驚く宗介の反応に、イナバは真剣な顔で聞き返してきた。

「初耳だ」

 あの署長はなぜ肝心なことを隠すのか。それとも署長は脅迫状のことは信じていなかったのだろうか。

「本当に脅迫状なんてものが来たのか?」

「そうよっ。なんなら見せたげよっか? アタシが正しかったら靴くらいは舐めなさいよね」

「断る」

 ばっさりと言い捨てると、宗介は視線を戻した。その態度に、イナバは悔しそうに下唇を噛んで鞄をあさり、結局脅迫状を見せてきた。

 脅迫状の紙を広げてみる。やけに達者な筆遣いで書かれていた。

『貴殿たるイデオンの光明の如くこの旨を受け取って欲しい。流れない風の赤い丘の中で落ちてみせようかと思案するも(中略)登らない僕を眺めることで差し出す手を敵味方に区別すべきであろう。しかし(中略)擦り切れた糸をいたわるが如くに切なさを見いだしてしまうのであり』

「……この暗号文はどう解読するんだ?」

「アタシに聞かないでよバカ。暗号ではないらしいけど、ほとんどさっぱりなのよ」

 文章からはサイコのような精神異常さが感じ取れるが、悪意があるのかまでは読みとれない。

「なんでこれを脅迫文と判断した?」

「最後の部分を読んでみてよ」

『美しき卵よ。宇宙を駆け渡るこのナイトめと幕を下ろすのだ。紅き血にてそなたと共に、死という名の暗闇に落ちていこう。来週に迎えにまいろう。其の時に我らの時間は永遠となる』

「これが?」

「その部分がなんかヤバクない? 殺しに来るとか道連れにするとかいう意味合いに取れてくるんだけど」

「よくこんな手紙を最後までまともに読もうと思ったな」

「あたしだってイヤだったけど、こいつの場合他の熱狂ファンと違うのよ。郵便受けに毎日あたしが行動したことが細かく書かれてて、そのひとつひとつを指摘してくんのよ。それも外出のときだけでなく家の中の行動もよ?」

 それでは完全なストーカー行為だ。

「警察には?」

「届けたけど、まともに取り合ってくれなくて。この脅迫状で、やっと動いてくれたと思ったのよ」

 佐伯恵那を思い出す。彼女の場合はストーカーではなかったが、彼女の不安な顔と、イナバの顔が重なって見えた。

「……わかった。ではこれからはそう考慮した上で護衛に当たる」

「信じてくれんの?」

「一応はな。どっちみち護衛を頼まれているんだ。警戒はしておくにこしたことはない」

 そう言ってやると、彼女はほうっと胸を撫で下ろした。さっきよりはピリピリした感じが薄れていた。

 本当に不安だったらしい。これで仕事に少しは集中できるだろう。

「いいわっ、これよ脅迫状っ!」

「……は?」

 いきなり若菜がなにを叫んだか、宗介もイナバも把握できない。

「燃えるっ、燃えるわこのシチュエーションっ」

 脅迫状を嬉しそうに眺めて、ぐっと拳をつくった。

「あのー、ちょっと。もしかして頭、膿んでんの?」

「こういうのを待ってたのよあたしはっ。いつもいつも違法駐車の取り締まりばかりでやってらんねーと思ってたけど、やっぱりこういうチャンスがちゃんとまわってくるものなのねっ。安心して、イナバちゃん。華麗に、そしてかっこよく銃撃戦をこなしたあとに助け出してあげるから。バッチリさらわれてて大丈夫!」

「さらわれないように守ることを考えなさいよっ!」

 またも宗介のため息が漏れる。頭痛もしてきたかもしれない。



 さらに三十分経って記者会見がようやく終わった。この後は決まったコースをパレード一周。

 使用する車はパレード専用のパトカー。イナバは後部座席で窓全開に、通りに向けて手を振っていくことになっている。隣は護衛のために宗介。そして運転は若菜。

「…………」

 なぜ、運転手が若菜なのだろう。合流した時のことを思い出すと、とても優良運転手とは思えない。

 だが自分が運転しては、その分いざというときの護衛が後手になってしまう。はっきりいって、若菜の護衛力は信用していない。

「くれぐれも安全運転でな。市民の見本となる運転だぞ」

「任されて。襲撃車が来ようとも、わたしのテクの前にはひっくり返ってドカーンよ」

 頭痛で目の前がちかちかする。

 こうなったら不安だらけのパレードが早く終わることを祈るだけだ。

 そう腹を決めるほかなかった。



 パトカーがゆっくり発車する。イナバはすでに窓全開から上半身乗り出して、歩行者に向けて愛想を振りまく。

 一日署長としてのアピールと、アイドルとしての宣伝を兼ねているのだろう。

 だがパトカーはカーブにさしかかると、普通は減速するところで、ぐんと加速してわざわざドリフトを決めだした。

「おげえっ」

 腹が窓枠に押しつけられ、圧迫されて漏れたアイドルの低い悲鳴。一瞬だったが、舌と目をむき出しにしたその表情は下手なホラー映画よりグロかった。

 がくがくと車内が激しく揺れる。さきほど念を押したのに、若菜は暴走状態に入ってしまっていた。

「ちょ、なにしてんのぉっ?」

「あははははぁっ」

 若菜の目がスピード狂のそれになっている。目いっぱいアクセルを踏み、ハンドルを大きく回し、ギャギャギャと地面をうならせる。

「嫌あああぁぁっ!」

 イナバは車窓のふちにしがみつくのが精一杯で、とても手を振る余裕などなかった。



「あ、あんたねえっ」

 一時間かけてゆっくりとまわるコースをわずか二十分で終わらせてしまった。若菜の思いがけない暴走によって、パレードはあっという間だった。

「どうしてくれんのよっ。パレードは宣伝でもあるのよっ。それをなにっ? 手を振ることも、みんなに顔見せすることもできなかったじゃないのっ」

「そんなことしたら、イナバちゃん撃たれてるわよ」

「はあっ?」

「有権者の射撃暗殺のほとんどは、お決まりのコースを巡回するときに狙われるものよ。まあ大統領とかはそういうとき影武者を立てるらしいけど」

「なに言ってるかぜんっぜん分かんない。あんたほんとにアタシのための護衛をしようと思ってる? 邪魔しに来ただけってわけじゃないの?」

「もちろんよ。たとえイナバちゃんが襲撃者に拉致られて車で逃走されても、パトカーで体当たりして止めてやるつもりだから」

「中のアタシも危ないじゃないっ」

 もはやお笑いコンビのやり取りと化してしまっている二人だが、これでスケジュールをずいぶんと前倒しせねばならない。

 スタッフとマネージャーにこのことを報告して、次の手配を進めてもらう。

 それからイナバを適当になだめ、スタッフのいる場所に戻った。

 パレードが終われば、締めの挨拶だ。だがその前にメイク直しがあるらしく、別室に行こうとする。

「イナバさーん」

「ん?」

 呼ばれて振り向くと、スタッフの女の子がハンカチをイナバに差し出そうとしていた。

 今日は暑いので、汗をかいてしまっている。その配慮をしてくれたようだ。

「ありが……」

「危ないッ」

 いきなり叫んだのは若菜だった。彼女はイナバの腕をとって、ぐいっと引き寄せる。唐突のことだったので、イナバは大きく体勢を崩して派手に転んだ。

 地面に尻を思いっきり打ったらしい。すぐに動けず涙目になってさすっていた。

「痛ったあっ。もう、なんなのぉ?」

 なぜか若菜は、ハンカチを出してくれたスタッフの子を組み伏せていた。

「ちょ、なにやってんの?」

「騙されちゃだめよイナバちゃん。このハンカチにはクロロホルムが染み込ませてあって、眠らせてから拉致しようって魂胆なのよっ」

「はあ?」

 そのハンカチは地面に落ちていた。宗介がそれを拾い、注意してくんと軽く嗅いでみる。クロロホルム独特の匂いはしない。

「なにも仕込まれていないぞ」

 クロロホルムどころか、ほとんど新品状態のハンカチだ。

「そんなはずないわっ。さあ吐きなさい、なにを企んでたの?」

「わ、わたしはただ汗をかいてたようだったから……」

 弁明するスタッフ。誤魔化しているようには見えない。

 宗介は若菜の肩を叩いた。

「そもそも、こんな人の多いところで眠らせる意味があるか? 不自然すぎるし、見られてしまう危険が高いだろう」

「……それもそうかもね」

 冷静な宗介の指摘に、若菜はバツが悪そうに、スタッフを解放する。

「ちっ、ジェームズ・ボンドばりに華麗に対処できたと思ったのに」

 ぽつりと漏らした若菜の一言。

 反省どころか、いい見せ所を台無しにされたとがっかりしていたようだった。



 簡単に締めの言葉を告げて解散となった。これでここの活動はすべて終わった。

 イナバはその後、警察官の格好のままサイン会の会場となっている本屋へと向かうことになっている。

 制服の返却はその後でいいと署長に承諾を得ているようなので、そのままだ。次への準備にとりかかる。

 イナバはそこでお世話になったスタッフや関係者に挨拶をしてまわる。宗介はその間にも傍につきそう。若菜は先にサイン会場の方に行って、護衛のための整備にとりかかることになっていた。

 毒舌アイドルといえど、礼節はそれなりにわきまえてるらしく、関係者に丁寧な言葉でお礼を言い、軽く談笑する。それも宣伝を織り交ぜているんだろうが、アイドルの営業も大変だなと、宗介は黙ってその様を眺めていた。

 ちらと窓から外を伺うと、ここでのイベントは終わったにもかかわらずまだ人だかりが小さくできている。手元には携帯。写メを撮ろうとしてるのか、常に持ち構えていた。

「待たせたわね」

 三十分とかからずに移動の準備ができたらしい。引き連れて教えてもらった裏口にまわり、置いてあった覆面パトカーに乗り込む。外観が一般者と変わらないので周囲のファンにはイナバが乗っているとは判別できない。

 サイン会場となる本屋へ、今度は宗介の運転でイナバの道案内に従って向かっていった。



「この辺りか?」

「そのはず。その先で曲がると止めるとこがあったから、そこを左ね」

 ハンドルを切って、建物の中に入る。大きな駐車場に出たので、空いてるところに車を止めた。

 イナバはサングラスに帽子と、軽く変装していた。現場に着くまでにファンに囲まれるとスケジュールが崩れるため、晒すのは会場の裏側の楽屋に着いてからだ。

 駐車場の端の階段から上って、会場のある階に行く。大型のテナントビルで、本屋のフロアは三階と四階だった。

「あ、あそこね」

 ガラス張りの入り口に書店の名が刻まれていた。宗介は辺りを警戒しつつ、本屋の中に入る。

 客達は本を眺めていて、変装したイナバに気づいていない。

「あれね」

 本屋のフロアから少し出たところの廊下っぽいところに、事務室にあるような長机とイスがぽつんと置いてあった。

「あれ?」

 机と椅子は用意されていたが、誰もいない。それになにより、ファンらしき人が一人も並んでいない。

 普通、ファンというものは時間よりも早めに来て、少しでも近くにいたいと待ち構える。時間前に挨拶をしたり、差し入れを渡したり。そういう人だかりが見あたらない。

「どういうことだ?」

「…………」

 彼女を見ると、なぜかイナバの顔が暗く沈んでいた。どうやら彼女にはこの意味が分かっているらしい。

「どうしたんだ?」

 もう一度声をかけてみると、彼女は顔をあげないままにぽつりと言った。

「だからイヤだったのよ」

「……?」

 つぶやく彼女の声は、怒りよりも悲哀に満ちていた。

「結局、あたしの人気ってのはこういうことなのよ」

 ファンが来ていないことを言っているらしい。

「だが、さっきはファンがいっぱいだっただろう」

 一日署長としての挨拶のとき、自分としては信じがたいほどの人数が集まっていた。あれがイナバの人気のステータスなのではないのか。

「あれは有名人というくくりでアタシを見てるからよ。後で周囲に『有名人に会った』と自慢するための話題ほしさで、アタシだからってわけじゃないの」

 それもたしかにありそうだが、極端すぎる気がする。

「別に、ただこのサイン会にファンがいなかったからといって、そう決めつけるのもおかしいと思うが」

「このサイン会はね。アタシの写真集を買ってくれた人だけが参加できるの。つまり、お金を出してまでアタシのサインが欲しいって人だけが来れる場所なのよ」

「写真集……?」

 その存在を知らない宗介に、イナバは鞄から写真集を出してきた。

 手にとって、それを眺めてみる。かなり薄い。表紙ではイナバが最近のファッションの格好でこちらに手を振っている。ぱらぱらとめくると、似たようなものが続いて、その間にイナバの毒舌特集が組み込まれている。正直に言って、これは欲しくない。

 しかも写真集と言っても、水着姿ではなくいずれも私服で、男性客をさらにがっかりさせるような内容だった。

 裏表紙に記載されている値段を見ると、二千を超えていた。

「高い……」

 この薄いページ数にこのどうでもいい内容。自分なら絶対に買わないなと思った。

「サインのためにこの出費が必要になると、手を引く。それが今のアタシのファンってことよ」

 タダで参加できるイベントなら集まってくるが、二千円以上も出してまで欲しがるファンはいない。そういうことらしい。

「なんとなくわかってたわよ。アタシの人気なんてこんな程度だって。毒舌キャラなんて一時のブームに過ぎないんだから」

 自覚はしていたらしい。それでもあえて毒舌キャラでいくのは、自分の意志とは別のところからやらされているということなのか。

「ただのアイドルだった頃に、ちょっと素で毒吐いちゃったのよ。ほんとは失態だったんだけど、なぜかそれが受けちゃって。それからその路線で売っていこうって事務所が……。まあ、思ったことをそのまま言ってよくなったのは気楽になったけど」

 やはり毒舌は素だったか。あれは作りキャラにしては生き生きしすぎてると思った。

「ただ、悪口を言われて喜ぶ感性がアタシにもいまいち分かんないのよね。萌えってのを理解できないのと同じなのかしら」

「さあな」

 どっちも理解できない自分としては答えようがない。

「時間が決まってるからあと二時間はここにいなきゃなんないのよね。なんか、みじめ……」

 この場所は、書店のフロアから少し離れた作業場に近い。正確には関係者の作業場を繋ぐ広めの廊下で、倉庫や小さなイベント代わりに使われるらしい。つまり、普通なら人は滅多に通らない場所。

 離れたところでショッピングを楽しむ声が響く。それに相対して閑散としたここがとても寂しいものになる。

 イナバは膝の上に置いた手をぎゅっと握ってうつむいていた。現実を突きつけられてさっきまでのテンションが微塵もない。

「…………」

 なんとなく、宗介は押し黙る。普通ならここで慰めでも言うべきかもしれないが、宗介にはそんな器用な真似はできなかった。

「少し離れる。なにかあったら大声を出せ」

 例の脅迫者に対しての対応を言いつけると、宗介はイナバをその場に一人置いて、目の前の書店に入った。



 十分経って戻ってきても、イナバは相変わらずうつむいたままだった。涙を流しはしないが、生気を失っているようだった。

 そんな彼女の眼前に、すっと本を置いた。その本に、イナバがぴくりと反応した。

「これ……」

 宗介がついさきほど書店に入って買ってきた本。イナバの写真集だった。どこにあるかは書店の手作り広告ですぐに分かった。

「どうした? サインを入れてくれるんだろう」

「……わざわざ買ってきたの? なんで? アタシのサインなんていらないでしょ。アタシのこと知らなかったんだから」

 同情なんていらない。そういう意味を含めた言葉で返される。

「そうだな。俺は毒舌アイドルイナバのことは知らなかった。だから、初めて知り合った記念としてサインをもらいたい」

「あんた……」

「それに返本はきかないしな。せっかくサインをもらえるこの機会を生かしてもいいだろう」

 ようやく、くすりと彼女に笑みが浮かんだ。

「しょうがないわね。アタシのサインで価値が上がるんだから感謝しなさいよ」

 手にとって、表紙をめくる。高い出費だったが、そこは割り切ることにした。

 彼女が折り返しページにサインをしようとサインペンを出したところで。

「あっ、こんなところに居たんですか」

 書店名の入ったエプロンをつけた青年が、急いでこっちに駆け寄ってきた。

「もうすぐサイン会の時間なんですよ。早く北側に行きましょう」

「え? サイン会場ってこっちじゃないの?」

「南側じゃなくて北側入り口の横ですよ。もうとっくにスタンバイはできてます。早くお願いします」

「…………」

「つまり、どういうことだ?」

 宗介の問いに、イナバはアイドル風の照れ仕草をしてみせた。

「また場所間違っちゃってたみたい」

「……おい」

「さ、早く行くわよ。時間ないんだから急いで」

 サインペンをしまい直して、先に駆け出す青年の後をついていく。

 宗介は残された本を手に取ると、やりきれないため息をついた。

「返本……きかないんだったな」



 北側のサイン会場にたどり着くと、さっきまでの静けさがウソのように、そこは人であふれていた。

 列がずらりと長く続き、会場からかなりはみだしてしまうほどに。

 スタッフたちがサイン会場で長机をセットし、背後にイナバの写真と広告を盛大に飾っている。

 そういえば、スタッフが一人もいない時点で場所を間違っていることに気づくべきだった。

 若菜は会場の端にいた。たどり着いたイナバと宗介を見つけると、向こうから来る。

「どうしたの、やけに時間かかったのね」

「まあ、いろいろとな」

 宗介も配置につく。イナバがスタッフとなにかを確認して、サイン会場の席についた。

 それと同時にわっと歓声が沸く。サイン会場にひっきりなしに詰められたファンたちが一斉に声を出すと、書店自体が震えているような感覚にみまわれた。

 それだけのファンの数。これだけの人達が、あんな薄っぺらい写真集を、高い出費を出してまでここに訪れたのだ。

「信じられん……」

 現実はやはり狂っていた。

 顔をしかめつつ、イナバを見る。彼女はそれを当然のように受け止め、笑顔で返していた。

 さっきの落ち込み様をみじんも感じさせない。やっぱりこれがアタシの人気なのよ。そう言いたげに一度だけこっちに視線をよこしてきた。

 その変わりようには、本気で詐欺師ではないだろうなと疑いたくなるほどだった。



 サイン会が始まった。サインは色紙ではなく、購入した写真集に直接入れることになっている。それが原則らしく、写真集以外にシャツを手で広げて、ここにもと頼むファンにはきっちりスタッフがお断りしている。

 しかしプレゼントといったものは受け取ってもいいようで、ファンのほとんどがなにかをサインを受け取ると同時に手渡ししていた。

 花束、手作りクッキー、手紙。もちろん受け取った後は近くのスタッフが用意した箱に収めていく。

 なぜか若菜はその箱に取り付いていた。

「おおっ、これはあたしの欲しかったシャネルの腕時計っ。んじゃこれを怪しい仕掛けがないかどうかの確認としてあたしが預かりますっ」

「こ、困りますっ。勝手に持っていかないでくださいっ」

 イナバへのプレゼントを自分のものにしようとしている魂胆がみえみえで、スタッフはファンよりも若菜の対応に苦慮していた。

「なにをやってるんだ、あの女は……」

 しかしここを離れるわけにはいかないので、スタッフに任せておく。

「それではここで五分の休憩としまーす」

 スタッフが列を止めて、イナバを移動させ、飲み物を与える。

 宗介はねぎらいの言葉をかけるでもなく、黙ってそばにいる。

「やっぱアタシの人気ってのはさすがよね」

 ミネラルウォーターを口から離すなり、宗介に話しかけてくる。

 さっきと言っていることが違っていたが、もうそこは黙っておく。

「あ、それとさっきのあれは、演技だからね。決して弱音を吐いたわけじゃないのよ。だからさっきのは忘れなさいよね」

「……それより、例の脅迫状のことだが」

「うん、今のところは大丈夫みたいね。やっぱり悪戯だったのかな」

「お前が気を抜くな。真偽がどうであろうと、狙われてる本人にはそれなりに警戒はしてもらわんと。自分で自分の身を守ろうと意識しておくことは大事だ」

「……うん」

 宗介の言い分はもっともだと、イナバは素直に受け入れて頷いた。

 それからもう一つの悩みの種に目を向ける。

 視線の先には、イナバへのプレゼントにありつく婦警、若菜がいた。

「あの人、どうして警察官になれたの?」

「もっともな疑問だな」

 警察官採用の選考基準は意外に緩いのか。まあそうでなければ、俺も警察官にはなれていなかったかもしれない。

「世の中は信じられんことばかりだしな」

 毒舌アイドルの盛り上がりっぷりも含めての言葉だった。イナバはそうかもと納得している。

「ちっ、あいつらめケチケチしやがって」

 スタッフとの押し問答で追い出された若菜が、ぶつぶつ文句を言ってこっちに戻ってきた。

「あんたもいい度胸してるわね。本人の目の前でもらい物を横取りしようなんて」

「ち、違うわよ。プレゼントに見せかけた危ない物かもしれないと思ったから、持ち帰って慎重に検査しようと……」

 その言葉を宗介もイナバも信じていない。

「それでは再開でーす」

 休憩時間が終わり、列を阻むものが解かれる。ファンがまた一人サインをもらいにやってくる。

 写真集にサインを入れ、一言お礼を言って本を返す。それをファンが受け取ると、今度はプレゼントを出してきた。

 それを見て、イナバは一瞬、アイドルではなく一人の少女の顔になった。

 ボン太くんヌイグルミ。愛嬌のある顔が特徴的なそのヌイグルミだった。年齢を問わず女性に人気がある。

「ありがとう。大事にするわね」

 イナバが喜んで受け取ろうとしたとき。またも若菜が横からそれをかっさらった。

「今度はなによっ」

「素人は黙ってなさい。こういう手には、大抵ヌイグルミの目のとこに盗撮カメラが仕込んであったりするのよ」

 だからこれも自分が引き取ると言いたいのか。

「じゃあこの場でさっさと調べて返してよ」

「うっ、いや、こういうのは企業秘密だから、わたしの部屋で……」

「……その言い分でアタシが納得すると思うの?」

 さすがにボン太くん人形とあって、イナバは簡単に引き下がらない。

 その主張で、若菜はちっと小さく舌打ちして分かったわよとその場で調べ始めた。

 ヌイグルミをわっしと挟むように掴んで、目のところを押し込むようにむき出しにさせる。

「レンズはないわね」

「なら解決ね。返して」

「まだよ。もしかしたら、盗聴のほうかも」

 盗聴器ならばレンズは必要ない。中に仕込むだけでいい。それなら一見しただけでは判断できない。若菜の言い分は正しかった。

 だが嫌な予感がする。このヌイグルミは中身を確認できるチャック式ではない。

 そうなると、中に盗聴器が入ってないかを確かめるには。

 ざくり。

 愛らしいボン太くん人形は、カッターナイフで刺された。

「イヤああぁぁっ」

 送り主はすでに列を離れていたので助かった。だが、ボン太くんが刺された光景を目の当たりにしたイナバは、トラウマになりかけていた。

 若菜はボン太くんの愛嬌などまったく意にも介さないようで、平然と中の綿をまさぐっていく。

「なかったわ。これで安心ね、はい」

 腹を裂けられ、中身がはみでたボン太くんは、下手なホラー人形よりよっぽど怖いモノに変わり果てていた。

 警察官が堂々と器物破損をしでかした事実に、どうすべきか宗介が悩む羽目となってしまっていた。



 ファンの列はようやく半分に減った頃だろうか。小さなトラブルはいくつかあったが、それはスタッフで処理できるものだった。

 イナバとしてはやることは変わらない。本にサインして、ファンのねぎらいの一言を受け取る。差し入れをもらって礼を言って、次のファンにまわる。

 変わらない作業。イナバに接触するファンの行動一つ一つを観察するのは、相当な神経を要した。妥協するつもりはないが、さすがに疲労が溜まってくる。

 ファンがまた一人ぺこりと頭を下げて、サイン入りの写真集を大事そうに抱えて列から外れた。

 そして次のファンが写真集を机の上に置く。イナバは礼を言って、サインを入れていく。その本を受け取る前に、男は差し入れの箱を渡そうとしてきた。イナバはそれを受け取ろうとして、手を出す。

 しかし手に届く前に箱が落ちた。タイミングがずれたのか、彼女の手に触れる前に男が手を離してしまった。 

 それでも自分の過失と思って焦ってしまう。

 大事なファンからのプレゼントを落としてしまった、と動揺していると。

 ぬっと、光るものが向かってきた。ナイフだった。

 プレゼントを落としたのではない。男の手が、プレゼントからナイフに持ち替えたのだ。

 凶悪なナイフの刃が、イナバの胸めがけて突き出される。いきなりすぎて身体が反応できない。

「きゃ……」

 悲鳴が口から出ようとした瞬間、横から伸びた手がナイフの手をがっしと力強く握った。

 宗介だった。とっさの事だったのに、彼はすばやく反応し、ナイフがイナバに届く前に男の手を止めた。

 そして手首をひねり、腕をとって力を乗せ、男を床にねじ伏せた。ナイフはすでに手から離れている。

 男は長髪に無精ひげを生やした中年だった。ただしその目には狂いが混じっている。

「脅迫状は本物だったな」

 こんな状況なのに、宗介の声は落ち着いていた。

 狙われた本人にもほとんど反応できなかったのに。その思いは襲撃者である男も同様だった。

「な、なぜ……」

「あれだけ殺気を放ってたら気づく」

 すごい。これが警察官なのか。イナバは宗介の横顔を呆然と見上げていた。

 他人をこれほどまでに頼もしいと思えたことはない。

 イナバは初めての感傷に戸惑っていた。

 この騒ぎで近くのガードマンも駆け寄ってきて、三人で男を捕縛し、手錠をかけたのを確認して立たせた。

 宗介は男のポケットをまさぐり、財布を出して免許証を覗いた。

「水星庵、か。いい年してアイドルを道連れにしようとはな」

「崇高たるナイトの思考など貴様などに分かるものか」

 脅迫状と同じ奇怪な言葉で叫びだした。これで同一人物と断定できた。

 水星は拘束されたまま、遠くのイナバに顔を向ける。

「なぜだイナバくん。我とともに歩む道を放棄する気か。あれだけ我が情熱をイデマンとカーソス定義に当てていたというのに」

「あ、あんたなんか一生お断りよっ。近くにいるだけで汚らわしいわっ。もう二度と顔を見せるなっ、このイカレ野郎ッ!」

 イナバの叫びに、周囲がしんと静まり返った。いつものアイドルとしての毒舌ではなく、人間としての拒絶だと感じとれたからだ。

 それは水星にもよく伝わったようで。彼の目にみるみる絶望が色塗られていくのが分かった。

「よ、よくも我が情熱を砕いたな。呪ってやる。呪ってやるぞ」

 底冷えしそうなほどに暗い、陰湿な声だった。

「呪って死んでやる。恨みながら死んでやる。死んでやるぞ、はははははッ!」

「早く連れて行け」

 ガードマンに言って、男を追い出す。応援を呼んでおいたから、まもなくパトカーが来るだろう。

「こ、怖かった……」

 男が連れ出されてから、イナバは腰が抜けたようにへたっと床に座り込んだ。

「いい啖呵だったぞ」

「ねえ、あいつ、ずっと牢屋に閉じ込めてくれんの?」

「いや、殺人未遂だからな。未遂だとそんなに何年も拘束できない」

「そ、そんな……」

「でも、殺人になってるよりはいいだろう?」

「当たり前でしょっ」

 殺人だったら今ごろイナバは悲しい末路となっていたところだ。

 その怒鳴り声で、いくらか調子が戻っていると確認すると、宗介は手を差し伸べる。

「あ、ありがと……」

「珍しいな。毒以外の言葉が出てくるとは」

「うるさいわねっ。まあ、たまには……素直に礼くらい言うわよ」

 宗介の手を掴み、なんとか立ち上がる。

「でもほんと、どうしよう。出てきたら今度こそまじ殺されるんじゃないの……?」

「そうされそうになったら、警察に助けを求めて来い。また守ってやる」

「……ほんとに?」

「ああ。何度でもな。市民を守るのが警察だ」

 真剣に言ってくれる宗介。その横顔を眺めていると、不思議とさっきまでの恐怖が薄れていた。

「……うん」



 脅迫状の心配が無くなると、あとはスムーズに事が進んだ。本来なら未遂でもああいう事件が起きた時点でサイン会が中止になるものだが、イナバの強い要望でそのまま継続となった。

 そして列が三時間でなくなり、無事に終了となった。

 一日署長の制服を返すために本部に訪れ、そこで署長と数分話し込んで、今日のイナバのイベントは全て終わった。そして宗介の護衛もここで終わりだ。

「やれやれ。ようやく解放か」

 傍に付き添うだけのはずだったが、雑務もいくつかやらされた。意外に疲れる仕事だった。

 そんな宗介の言葉を、イナバが下から責めるように見上げてきた。

「そういう言い方はないんじゃない? ここは別れるのを名残惜しむような台詞でしょ」

「名残惜しむ? なぜ?」

「……絶対、あんたの方が毒舌キャラよね」

 それでも可笑しそうにしている。完全に落ち着きを取り戻しているようだ。

「それにしても、あの婦警が居なかった方が、もっとスムーズだった気がするわ。そこが引っかかるのよね。結局あの女は邪魔しに来たような気がして」

「そのことなら、俺がちゃんと正確に、漏らさずにきちんと報告書にして提出しておく。あの女にはそれ相応の処罰が下るだろうな」

「へえ、やるわね」

 にやりと笑って、イナバは軽くひじで突いてきた。

 これで心残りはなくなったとして、彼女は手を振ってマネージャーとともに車に乗った。

 車が去っていくのを見守って、それから本部に戻って任務終了の旨を告げ、いつもの交番に戻っていった。



 泉川署交番。

「どうでしたか、先輩」

「なにがだ?」

「アイドルと一日中傍にいたんでしょ。滅多にないことじゃないですか」

「だったら、千鳥が引き受ければよかっただろう」

「いいんです。どことなく面倒事が舞い込んできそうな気がして……」

 千鳥の読みはほとんど当たっていた。



「ああ、そうだ千鳥」

「なんです?」

「これをやろうと思ってな」

 本屋のロゴが入った袋を手渡してやる。

 がさがさと開けて出てきたのは、イナバの写真集だった。

 千鳥は驚いて宗介を見上げた。

「あたしにくれるんですか?」

「ああ。餞別だ」

 それでも千鳥は、嬉しそうにはにかんだ。

「あの、じゃあコレいただきますね」

 袋に入れなおして、なぜか優しく胸の内に抱えた。まるで宝物が増えたかのように。

「…………」

 意外な反応だった。宗介の中では、てっきりからかわれたと怒ると思っていた。

 しかし千鳥は、写真集ではなく、宗介からもらったことに喜んでいた。

 いらないから押し付けただけだったんだがな。

 彼女の嬉しそうな様子に、逆にちくりと罪悪感が胸を突いてくる。

 その痛みはイナバの毒舌よりずっと強力だな、と心中で苦笑していたのだった。




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