決着へ……レナードから受けたミスリルの被害は、ほとんど壊滅的なものだった。 管制室は奪われなかったものの、上の階は徹底的に荒らされ、使い物にならない。元のように修復するのにかなりの日数を要するだろう。 レナードが去った後、レナードに操られていた隊員たちは暴走を止めた。 しかし催眠術から解放されたわけではなく、むしろそれ以上に苦しみだした。頭を抱えてのたうち回り、ぶつぶつと意味不明な言葉を繰り返しつぶやくようになった。思考能力を極端に低下させられてしまったようだった。 ほとんど再起不能に近い状態で、かなりの戦力を削ぎ落とされた形になってしまった。 なにより痛かったのは、ミスリルにとっての切り札でもあったクルツ・ウェーバーの死亡。 突然の襲来によって完全な戦闘態勢が整えられなかったとはいえ、まさかこうもたやすくやられてしまうとは思っていなかった。
レナードが去って翌日。 クルツ・ウェーバーは黒い棺桶に横たえていた。 ミスリルの隊員達によって短い葬式が行われ、沈痛な表情の中で蓋を閉じられる。遺体は情報が漏れないよう、完全に消滅される。 ミスリルの隊員は、その存在が秘密裏にされるため、墓は建てられない。代わりに身につけていた遺品の一つを部屋の壁に飾られる。その上にイニシャルが入ったネームプレート。それが墓代わりとなっていた。 「クルツ……」 クルツの身につけていた腕時計。宗介はそれに向かって目を閉じていた。 あまりにもあっさりすぎて、クルツと交わした最後の言葉がなんだったか思い出せない。あまりにも唐突過ぎた。 祈りの形で自分の胸に手を添える。ずきんとアバラが痛んだ。 まだ宗介の身体は完治したわけではない。だがまた襲来があったとき、身動き一つとれないのでは、と担当医がロックを解除した。もう自然治癒でも十分との判断つきで。 だが胸が痛むのは、アバラのせいだけではなかった。 「レナード・テスタロッサ……」 まさかたった一人で、ここミスリルに乗り込んでくるとは。 しかし、誰もレナードを抑えられなかった。次々と隊員が操られ、荒らされ、切り札であったクルツをも奪われた。 完全な敗北といえたこの一件。それに自分が関わることができなかったのが、なにより悔しかった。 このままでは済ませない。レナード・テスタロッサ。
宗介は廊下で修繕の様子を見ていたテッサに声をかけ、二人で話したいと持ちかけた。テッサは了承し、場所をテッサの自室に移す。 自室で二人になったところで、宗介から前置きなしに本題を切り出した。 「今後の予定を確認しておきたい」 「当分は、ミスリルの体勢を立て直すことからです。修繕もありますし、しばらくはそれにかかりきりになるでしょう」 「……レナード・テスタロッサの位置は分かったんだろう。なぜすぐに反撃しに行かない?」 今まで、レナードがここまで動くことはなかった。しかし今回、大胆にも一人で赴き、特に痕跡の始末もせずに戻っていった。いつもは処理する係の護衛がいなかったからだろうか。 当然この機を逃すわけがなく、管制室が無事だったミスリルは、その動向を一秒たりとも漏らさずに衛星・監視等ありとあらゆる方法で追跡した。その成果あって、レナードの住処がついに判明した。そしてそこがアマルガムの本拠地でもあった。 長年知られることのなかった場所が、彼の単独行動によって明かされたのだ。大きな犠牲の上で。 「無理です。こちらの損害が大きすぎます。今すぐに攻めたとしても、返り討ちに合うだけでしょう」 「反撃の体勢が整うまでどれくらいかかる」 「このままでいけば、早くても半年……」 「遅すぎる」 「分かっています。レナードが位置を特に隠さなかったのも、しばらく動きがとれないと見越してのことでしょう」 半年もあれば。また完全にその場所の痕跡を隠し、どこかに雲隠れされてしまうだろう。 ようやく掴めた情報だというのに、生かすことができない。 「もう一度確認する。ミスリルは、完全に体勢を立て直すまで、動く気はないんだな」 「……そうです。わたしだって、今すぐに反撃したいところですが……」 「分かった。それだけ確認できればいい」 まだテッサがなにか言いたそうだったが、これ以上は時間の無駄だった。宗介はそこを出て、廊下を歩く。その目には、一つの決意が宿っていた。
「サガラ」 その宗介を呼び止めたのは、カリーニンだった。 カリーニンが部屋の扉を半開きにして、その向こうからくいくいと指先で呼んでいた。 「……なんでしょうか」 「話がある。中に入れ」 促されるままに、部屋に入る。 ミスリルに入った頃とまったく変わらず、灰色のじゅうたんに敷き詰められており、質素な机と棚だけの室内だった。 カリーニンは椅子には座らず、壁際に立ったまま、宗介に向き直った。 「話というのは?」 「……サガラ。お前は一人でも、アマルガム本拠地に乗り込むつもりだろう?」 ぎくりとした。が、努めて顔には出さなかった。 あっさりと見抜かれている。 ミスリルがまだ出撃しないと判断すれば、一員である宗介もそれに従わなければならない。 だが、宗介はそれに逆らってでも、そして単独でもアマルガム本拠地に向かおうと考えていた。もちろん、これは重大な違反だ。ミスリルを辞めさせられても当然の行為。だが、それでもよかった。 ――どうする。カリーニンは俺を止めようというのか。 一瞬、迷いが生じた。邪魔する者がいれば、たとえ仲間でも退けるつもりだったのだが、まさか恩人のカリーニンに見破られるとは。 どういう手段でこの場を切り抜けようかと模索していると、それに割り込むようにカリーニンは言葉を続けた。 「別に、私は止めるつもりはない」 「……え?」 「どうせ、止めても無駄だろう」 「…………」 悠然としたカリーニンの背中。幼い頃に手を差し伸べてくれたあの頃と変わらない。 「サガラ。お前がミスリルに入った目的は分かっている」 宗介の目的。それは復讐だけだ。 「覚えているか、サガラ。お前が幼いときに交わした約束を」 「ええ、もちろん」 交わした二人の間の約束。カリーニンがクライブ・テスタロッサを倒すと。そしてそれはしっかりと実行されていた。左腕を失うことになっても、実行してくれていたのだ。 「それからお前はどんな道を歩むかと思っていたが。まさか警察という茨の道を進むとはな」 「警察に入れた事自体、今でも不思議です。当時の情報はほとんど残されていなかったようですし」 催眠だったとはいえ、殺人には違いない。そしてその実行犯は自分自身だったのに。 「ああ。それはミスリルの処置だ。催眠被害者が洗脳解放後を弊害なく過ごせるよう、催眠関連の情報は押さえるのでな」 警察には、あの事件とは無関係に、ゼロから考慮した結果だったらしい。そうでなければ、やはり採用などされなかっただろう。 「サガラ。お前が自らその道を進むと決めたなら、私はその背中を押してやろう。だからこそ」 そこで、カリーニンがこっちを振り向いた。 「お前に話しておくことがある」 「はい」 「レナード・テスタロッサと戦うのなら、知っておいたほうがいいと思ってな」 そのカリーニンの目が、昔を思い出させるような、戦士のものになっていた。 「……クライブ・テスタロッサの話だ」
話が済んで廊下に出ると、千鳥と出くわした。 「……あ、ソースケ」 千鳥の目はまだ赤かった。クルツの死を、昨日一日費やして哀しんでいた。 それがようやく落ち着いたようで、気丈そうに微笑んでくる。 「なにしてたんですか?」 「話を聞かせてもらったんだ。とても有益な話だった」 「ふうん。……ね、休憩室に行きませんか」 比較的被害の低い休憩室。だが傍にあった飲料自動販売機が壊れてしまったせいで、今は利用者が少なかった。 「そうだな」 もう、こうして話せる機会も少ないかもしれない。だがそんなことは顔には出さずに、ただうなずいてついていった。 休憩室の壁はほとんどが煤けていたが、ベンチは半分ほどが前の状態のままで据えられている。この通りには部屋がないので、荒らされたときもほとんどスルーされていた。 「ここはもっと白くて綺麗だったのに……こういうところも変わっちゃいましたね」 ベンチの隣に、千鳥が横に並ぶように腰掛ける。 いつもなら、この休憩室には間にもう一人いるはずだった。 クルツ・ウェーバー。所属の違うミスリル隊員たちが集まるこの場所が、彼は好きだった。 誰にでも気さくに話しかけ、話を盛り上げ、笑いの中心にいた男。 宗介と千鳥がここに居るときは、大抵一緒にいたものだ。 だが、彼はもうここにはいない。 「あたしがまだ警察に入りたてで、あの泉川の交番で研修してた頃からずっと三人一緒でしたよね。途中でバラバラになったけど、またここミスリルで三人一緒になれて……これからもずっとそうだと思っていた」 「…………」 その話題はお互いに辛かった。しかし、口に出さずにはいられない。その後が続かないというのに。 「…………」 無言のまま、時間が過ぎていく。ベンチの感触はそのまま変わらないというのに、昨日までとまったく違う場所になってしまったようだった。 「もうすぐ……アマルガムと決着をつけられそうだったっていうのに……」 千鳥から話題を切り替えてきた。だが、これもあまり幸先のよくない話題だ。 「……そうだな」 そう、アマルガムに関する情報が入手できそうだった矢先に攻め込まれた。先手を取られた形で一方的にやられてしまった。 「居所も掴めたっていうのに……」 「ああ……」 視線を向けずに淡々と返事していると、千鳥はうつむいて、そして宗介の横顔に向け、言い放った。 「でも。それでもソースケは……一人でも行くつもりなんですね 宗介はその言葉に驚いて、千鳥の方を向いた。 千鳥はじっとこっちを下から見上げている。 「聞いたのか?」 「分かりますよ。わたしたち、何年も組んだじゃないですか。交番勤務のときも、ミスリルでも……」 「……俺を止めるか?」 「…………」 すぐに返事が返ってくると思いきや、押し黙ってまたうつむいた。 「……あたし」 数秒してからゆっくりと顔を上げてくる。その目端がわずかににじんでいた。 「……千鳥?」 「分かってるんです。あたしがどれだけ言っても、ソースケは絶対に、今すぐにでもアマルガム本拠地に乗り込んで、決着をつけにいくと」 「…………」 「でも、それでもやっぱり!」 一拍の間を置いて、声色を弱めた。 「……行かないでほしい。正直なところ、このまま二人でどこかに逃げたいとも思ってる」 「千鳥……?」 いつも強気な千鳥が、敵を前に逃げようと言うなんて、珍しいことだった。 「……あのクルツさんがあっさりと殺されちゃったんですよ。レナードはたった一人で来たっていうのに。ここにはとても強い人達がいっぱいいるはずなのに、どんどん人が亡くなっていく。わたしはもう、これ以上、そういうところを見ていたくないんです」 千鳥の言いたいことはよく分かる。レナードに関われば関わるほど、大事なものを失っていく。 「だから。俺がここでくい止める。もうこれ以上、奴にいいようにされないために。俺たちはレナードの操り人形じゃない」 「もう……生きて戻ってこれるか分からないですよ」 「構わない」 なんの迷いもなくそう言ってのけると、千鳥の顔に哀しみが増した。 「やっぱり、そう言うんですね。まるでレナードさえ倒せれば死んでも構わないとでも言うように」 「…………」 「ソースケは……生きて戻ってくる気はありますか?」 千鳥は、一番聞きたかったことをついに口にした。だが答えは聞くつもりはなかった。怖かったから。 だが、宗介はあっさりと口にした。 「俺が今生きているのは、レナードを倒すためだけだ。それが叶えられれば、その先を生きる必要はない」 一番聞きたくなかった形で返されて、千鳥はついにこらえきれず、涙を頬に流した。 「レナードを倒したらそれで終わりなんですか。自分のために、誰かのためにその先を生きようとは思わないんですか」 「俺はずっと昔に死んだんだ。親を殺してしまった時点でな。レナードを倒すこと以外に生きていてなんの意味がある?」 「だから、死んだら悲しむ人がいて……」 「時が過ぎれば忘れてくれる」 「忘れません。あたしが」 「……千鳥がこれ以上仕事仲間が死ぬのを見たくないのは分かる。だが、これは俺にとって」 「違います! 仕事仲間のくくりで言ってるんじゃないんです! あたしが、あたしにとって、ソースケは大事な、失いたくない人だから……」 「千鳥?」 「ソースケが好きだから。これからもずっと一緒にいたいから。だから、だから……」 初めて言葉にして伝えられた千鳥の想い。 千鳥はその先の言葉が伝えられず、しゃっくり上げて泣いていた。 今の目の前にいる千鳥は、警察官でもミスリルの隊員でもなく、一人の女性だった。 数秒の沈黙。二人の間に流れたこの沈黙は、長いような短いような、いや、時間の感覚そのものが無かった。 「気持ちはありがたいが、すまない」 「……え?」 「お前にそういう想いを抱かせてしまったのは謝る。だが俺はそれに応えることはできない」 「……どうしてですか?」 「理由は言いたくない」 目を逸らす。気まずくなった空気から抜け出そうと、宗介はベンチから立ち上がり、千鳥を置いて休憩室を出て行こうとした。 「理由、言ってください!」 背後から強い声が宗介を呼び止める。立ち止まって、振り向いた。 「理由を言ってください。聞きたいです」 さっきまで泣いていたというのに、強い目でこっちを見つめていた。 「あたしが嫌いなんですか?」 「そうじゃない」 「仕事仲間以上には考えられない?」 「千鳥といると、楽しいと思う。だが……理由はまた別のことだ」 曖昧にさせて、話は終わりだとばかりに背を向けた。 「今ここで言ってください。卑怯ですよ。答えをはぐらかして、勝手に行って、死んで、それで終わりですか」 扉に伸ばした手が止まった。なぜか、笑みがこぼれる。 まったく、強気な千鳥にはやはりかなわない。 「……千鳥」 「はい」 「もう何度も話したことだが……俺は今まで、ずっとテスタロッサに復讐することを考えていた」 クライブ・テスタロッサ。そして、レナード・テスタロッサ。 「……はい」 「もし。もしもだ。もし、俺がレナードと向かい合い、決着がつけられる瞬間が訪れたとする。ところが、千鳥がレナードに人質として取られている。ノド元にナイフを突きつけられ、身動きできない人質として。だがそれを除けば、俺は確実にレナードを殺せる絶好のチャンス。だが動けば人質は確実に殺される。そうなったとき、俺はどっちを選ぶか」 「…………」 「俺はレナードを殺すほうを選ぶ。迷わずにな」 「…………」 千鳥は言葉には出さなかったが、動揺は表情に現れていた。その可能性も取るだろうと彼女自身覚悟を決めていたが、こうはっきりと言われると、さすがに胸の奥がずきんと痛んだ。 「もちろん、こんな状況はひとつの可能性に過ぎない。だが、絶対に起こらないとは言い切れない」 だからこそ、と宗介はかまわずに続ける。 「俺はこれ以上、『大事な人』をつくりたくない。あいつは……レナード・テスタロッサは、俺から大事な人を奪っていく。あいつの父に両親を奪われ、佐伯恵那を失い、親友だったクルツを奪われた。あいつに関わるほど、俺は大事なものを失っていく。それが嫌なんだ」 ついにこぼした本音。怖いのだ、失われていくことが。 「俺は映画や漫画のヒーローじゃないんだ。敵を倒しつつ人質を守る。そんな器用なことはできない」 それはガウルンとの戦いでよく自覚している。警察官だった自分は、人質を助けられず、敵に逃げられた。 「ソースケ……」 「これで気は済んだか? お前ももう、これ以上は俺に構わず……」 「よかった……」 「ん?」 「本当に、あたしが嫌われてたわけじゃなかったんですね。最初の出会いが最悪だったから、ずっとそれ引きずってるものかと。でも、あれから色々と変わりましたしね」 「……いや。千鳥はあの頃から相変わらずだぞ」 「ええっ?」 本気で驚いていた。やはり、千鳥といると、なぜだか無性に笑いたくなる。温かいものが、染み込んでくる。 だからこそ、『大事な人』にはしない。そうすれば、奪われることもないから。 「あたし、諦めませんから」 「……え?」 「ソースケの気持ちは分かりました。でも、やっぱりあたしの気持ちは変わりません。だから、待ってます。あたしはもっと強くなって、そんな心配を掛けさせる事なく、一緒に道を歩めるように……」 諦めるどころか、さらに積極的になるとは。そこが千鳥らしいといえばらしい。 「勝手にしろ」 「ええ、そうさせてもらいます」 まったく、本当にあの頃から変わらない。変わらないでいてくれる。俺が復讐を狙ってると知った後も、人を殺したことがあると知られてしまった後も。まったく変わらずに接してくれるのだ。このおせっかいな女性は。 「あのー……」 二人しかいなかったはずの休憩室に、別の声が割り込んできた。扉が開いて、テッサが顔をひょこっと入れてくる。 「お二人にちょっと来てほしいんですけど。……お邪魔でした?」 「いや、今話が終わったところだ」 テッサの呼びかけに、休憩室を出て、その場所に向かうことになった。千鳥は気丈そうに宗介の一歩先を歩き出す。 その背中を見ながら、宗介は心の中でそっと詫びを入れる。 ――すまないな、千鳥。 もしも。もしレナードとの決着がついて、それでも俺が五体満足でいられたとしても……俺はその後、自らで命を絶つつもりだ。 さっきの千鳥の想いはとてもありがたく、温かかった。俺はそんな千鳥をまた悲しませることになるんだろう。 しかし、レナードさえ殺せれば、それ以上は生きていたいとは思わない。 もちろんレナードを倒しても、倒すべき犯罪はいくらでもあるだろう。それでも俺は全てをそこで終わりにしたい。 たとえ無事でいても。無事でいられたとしても。俺はそこで終わるのだ。 すまないな、千鳥。 詫びの相手の背中は、一度も振り返らなかった。
「ここは?」 連れてこられたのは階下の治療室。その中で一番大きい部屋の前に来たところで立ち止まった。 大きな扉のガラス窓部分から、中が覗いて見える。白い服を着せられた隊員たちが膝をかかえ、うなっていた。 「先日、レナードによって操られた隊員たちです。彼らはレナードが去ったあと、思考能力が極端に低下。幻覚症状や無気力状態に陥られ、ほとんど行動不能です」 「ひどい……」 その彼らに対して、ミスリルは治療を開始した。しかしその治療は長い期間を見積もって行われるもので、完全に元に戻るのに、短くても半年はかかるとの見込みだった。それも反撃の準備期間の遅れの一つだ。 「なぜ、俺たちをここに?」 「千鳥さんに力を貸してもらうためです。相良さんも、立ち会った方がいいと思いまして、一緒に連れてきました」 「千鳥に……?」 「では、千鳥さん。本当に、いいんですね?」 「はい」 促され、千鳥が入ったのは隣の小部屋。そこには、大部屋から移された隊員の一人が膝を抱えて、ゆりかごのように身体を揺さぶらせていた。 「大丈夫なのか? 一人で行かせて」 また例の催眠が発動して、襲いかかるのではないかと進言したが、テッサはただ頷くだけだ。 テッサは小部屋の窓に歩み寄り、窓越しに千鳥に呼びかける。 「その方をどう思いますか」 レナードによって、呆然とするだけの無気力な隊員。考えることもできず、ただ生かされているだけ。 「とても可哀想……」 「その気持ちを意識して。助けてあげたい。その想いを強く持って、その方に触れて下さい」 千鳥は隊員の背後にまわり、背中から包み込むように、そっと抱いた。 目がうつろなその隊員は、その行為に怯えたが、逃げたりはしなかった。 それどころか、なぜだろうか。目の焦点は合っていないのに、その表情が和らいでいくように見えた。 千鳥に抱きしめられるまま、頭をその胸に預ける。それはまるで、母親に抱えられる幼子のようだった。 その光景に、妙に不思議な感じを覚えた。感情を奪われ、自意識を失ったはずなのに、穏やかな顔になっている。心地よさそうに、抱かれるままだ。 次第に、隊員に変化が起きていた。目の焦点が合ってきた。血色が正常に戻ってきた。身体の妙な揺れが収まってきた。 「これは……?」 「うまくいったようですね。少しずつですが、正常に戻っていってます」 「正常に? 催眠が解けたというのか?」 信じられない。特になにかをしたようには見えないのに、たしかに彼の様子がまともなものに戻っていく。 「これが、ウィスパードの力です」 「ウィスパード……」 長らく聞いてなかったが、その言葉は覚えていた。千鳥しか持たない、未知の力。 「まさか。催眠を解くことのできる力なのか?」 「少し違います。正確には、本来の自分を取り戻させる、というほうが近いでしょう」 「本来の自分を取り戻させる……?」 よく意味がわからない 「たとえば、傍にいるだけでホッとする人がいるでしょう。一般的には家族。自分をさらけ出せる相手。そういう人の傍にいるだけで安心できる。ウィスパードとは、それの強力版。誰にでもへだてなく、慈愛を与える。癒しを与えられたものは、本来の自分でいられる」 なぜか聖母を連想した。人類すべての母であり、癒しの女神。 「千鳥がそれなのか? まさか」 「相良さん。あなたも千鳥さんの近くにいることで、安らぎに似たものを感じたことがあるんじゃないですか」 言われて、今までの千鳥とのやりとりを思い出す。 たしかに、他の人に比べれば、いつの間にか千鳥には本来の自分をさらけ出していたかもしれない。 あいつの傍にいるとほっとした。いつだったか、悪夢に苦しめられていて、彼女の膝の上で眠ったこともあった。そのときは悪夢を見なかった。ただ夢を見なかっただけだと思っていたが、もしかしたらそれもなのか。 「あれは……ウィスパードの力だったのか」 千鳥ではなく、ウィスパードの。今までのことは全て。あの感情も、温かみも? 「誤解してはいけませんよ、相良さん。いくらウィスパードの力を持っていても、相手をおもいやる心がなければ、当然発動もしません。相手に対しての慈愛の心。それはまぎれもなく、千鳥さん自身の心なんです。あなたはそれに触れさせてもらったんですよ」 「…………」 「相良さんは、自分の過去を誰よりも苦痛なものと思っているかもしれませんね。誰にもその痛みは分からないと思いこんでいる」 「……何が言いたい」 「千鳥さんは、ただなんの理由もなくウィスパードの力を持っていると思ってるんですか? 違います。そういうことができるのは、みんなと同じ痛みをよく知っているからですよ。大事な者を失う孤独。一人でいることの辛さ。自分を偽ることの空しさ」 「…………」 「知ってますか? 千鳥さんの過去。こっちでも、入隊させるときに彼女のことは調べさせてもらいましたが、彼女自身、やはり辛い過去を送っています。詳しくは話しませんが、身近に家族がいながらも、居ないものとされる扱い。幽霊でもないのに、他人ではないのに、目の前にして相手にされない日々を送っていました。あの家族は、千鳥さんを完全に居ないものとした生活を送っていたんです」 かなめの分だけがない食卓。食材もかなめの分を除いた人数分のみ。家族が向ける視線は決してかなめのところでは止まらない。 理由を尋ねたくても、言葉さえ交わせない。なんのための自分なのか、知ることもできない。 どういう生活なのだろうか。存在しているはずなのに、存在しない者として扱われる奇妙な生活。 「その辛さを知っているからこそ、彼女は誰よりも人を愛するのです。誰であろうが、彼女にとっては自分の家族。その強い慈愛の心が、ウィスパードという形となったにすぎません」 「…………」 だが、疑問があった。そんな力があると分かっていたなら、なぜ今までそれを使ってこなかったのか。催眠の被害者は今までにもあったというのに。 「前例がなかったのです。彼女がウィスパードの第一人者であるがゆえに、どんな副作用があるのか分からなかった。今までテストをして、どういう作用があったのか協力してもらってました」 「副作用、だと」 「なにがあるか分からないということです。なんのリスクもない能力なんてありませんからね」 「それなら、今はどうなんだ。もう全て解析できたというのか」 「いいえ。まだテスト中でしたから」 「なら、なぜ」 「彼女がさきほどわたしの部屋に来て、志願してきたからです。わたしとしては、もう少し安全といえるデータが欲しかったのですが」 宗介がカリーニンと話していた間に、千鳥がテッサの部屋を訪れて、そう申し出たのだという 「千鳥さんはこう言ってました。アマルガムに反撃するチャンスは今しかないと。やられた隊員たちの死を無駄にしたくないと。その強い決意に押された形で、承認したんです」 「千鳥が……」 宗介を行かせたくないと言っておいて、影で協力を申し出ていたのか。いや、止めても行くと見抜いてた千鳥のことだ。その方が少しでも助けになると信じて。 「現時点で分かっている副作用は?」 「今のデータ上では、あまり問題はありません。ですから、もしこれで足りないデータ上で悪影響が含まれていたとしても、代謝の負荷による発熱、頭痛くらいでしょうか。少なくとも、死に至るケースはないでしょう。優先してテストしましたから」 「本当だな」 「ともあれ、彼女の勇気ある申し出によって、戦力が最低限確保できそうです。このまま隊員が復活できれば、あなたの望み通り、私たちは半刻後にアマルガムに向けて出撃します」 「本当か」 「ええ。あなたと戦闘員を中心としたチームで、アマルガムを潰します」 「特定できたというその場所は?」 テッサは小型の機械を出して、そのディスプレイ上に簡易の世界地図を表示させた。イギリス付近を拡大し、十字の線を引く。その交わった部分を指さした。 「ここです」 「……なにもないぞ」 そこは海だった。イギリスから少し離れた位置の海域。 「ええ。地図上には乗ってません。現地への映像で、ようやく確認ができました。ここは未登録の無人島なんです」 「未登録?」 「少なくとも二十年前には、ただの海でした。海底火山の活動の繰り返しで、海面から出るようになった陸地。まだ地図にも登録されていない島。アマルガムの本拠地はそこだったんです」 「見つけられんわけだな。だが、ここがやつらの墓場になるわけだ」 「そういうわけです。相良さんも半刻後に合わせて準備しておいて下さい。武器の持ち出し許可は全て出されています。おそらく、これが最終決戦になるでしょうから」 「そうだな。これが、最後の戦いだ」 「最低限の隊員を残し、総力戦で攻めます。千鳥さんも隊員全員の催眠治療が済んでから向こうで合流することになってますから」 「そうか」 チーム編成は全部で八チーム。宗介と戦闘員のチームが第一波として、先制をかける。残るチームが各方向から時間差に援護の形で乗り込む手はずになっている。 目指すはアマルガム本拠地。そこにアマルガムの主要、レナード・テスタロッサがいる。 ブラックリスト・ナンバー1を倒すために。白い悪魔を墜とすために。
そして、俺の全てに決着をつけるために。 |