招かざる来訪者

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招かざる来訪者


――ガウルンの死亡を確認。

 遺体収容終了。

 ミスリル側被害報告・負傷者五名。死亡者ゼロ。内二名は催眠被害、現在治療中。



 重傷を負った相良宗介は、最先端医療技術の手術を受けて、特別なカプセルの中で養生していた。

 そのカプセルは人間大ほどの大きさで、円錐形のフォルムを持ち、中のほとんどは緑色の液体で満たされている。

 表世界の医学を越えた技術の結晶による、人間の細胞再生速度を異常に速める効果を持つ。その液体に身を浸すことで、外皮から染み込ませる。そうするだけで治癒時間を大幅に短縮できる。

 これはミスリルにのみ知られた装置であり、表にはまだ晒されていない。医学でさえも、時代に見合った技術が必要なのだ。さらにいえば、現時点では違法とされている技法が使用されており、また量産に問題があるのも封印の理由だった。なんにしろこれを使用できるのはミスリル関係者と、大統領クラスの権限を持つ人物のみ。

「意識があるのは確認されてますから、大丈夫でしょう。あと数日もすれば、折れた骨もほとんど完治するはずです」

「凄えな」

 モニター越しにその様子を見ていたクルツが漏らした率直な感想に、千鳥も頷いて同意した。

 普通、骨折は自然に元に戻るのを待つしかない。それを、この装置によって何ヶ月もかかるところを一週間で済んでしまうというのだから。

「『黒い悪魔』は死亡を確認。ご苦労様でした、ウェーバーさん」

 テッサがねぎらいの言葉を掛けてきて、クルツは視線をそっちに戻す。

「オレは仕留めただけだぜ。あのガウルンをあそこまで追いつめたのはソースケだ」

 クルツの言葉には、自分をおごるところがない。クルツは自分の狙撃に、周囲のサポートが常にあることを心置いている。

「ええ、そうですね」

 ともあれ、これでブラックリストからまた一人除外できた。世界の脅威を減らせたのだ。これは大きな功績だった。

 そして残るは――



「ガウルンが、死んだ……」

 窓際から海を見下ろして、レナード・テスタロッサはぽつりとつぶやいた。

「あのような男は、どっちみちロクな最後しかなかったようですな」

 背後の黒男が、レナードの独り言を拾い上げて、応えた。

「……飛鴻。ガウルンの侮辱は、ぼくが許さない」

「……失礼しました」

「今日は外してくれ。一人でいたい」

「は。しかし、その前にもう一つご報告が」

「なんだい」

「ガウルンに仕えていた飛鷲も、ミスリルにやられたようです。遺体も回収されてしまいました」

「そう」

 その報告には、レナードはなんの感情も見せずに相づちを打った。

「他には?」

「いえ……では、私めは各地のアマルガムの報告を受けに行って参ります」

 レナードはなにも応えない。

 飛鴻はそっとその部屋を退場し、音を立てぬよう扉を閉めた。

 その部屋に背中を向けたところで、飛鴻は誰にも聞こえないほどの小さな声で、ぼそりとつぶやいた。

 兄さん、と。



 レナード・テスタロッサは、窓の外に広がる景色に視線を落としたまま。しかし実際には、どこまでも続く海面にぼんやりと浮かんでくるガウルンの姿を見つめていた。

「唯一の理解者を……失ってしまった、か」

 結局、彼はなにがしたかったのか、自分は知ることができなかった。彼の力になりたかったのに、彼の思想や理想の断片すらすくい拾えなかった。

 不思議と涙はない。しかしその代わり、強い決意が胸の内から沸いてくる。

 ――それならば、ぼくはガウルンのためにしてやれることをしよう。

 ちらりと部屋の隅に目を向ける。そこには一つのヴァイオリンが立てかけていた。彼のために奏でてやるのだ。

 ミスター・ガウルンの埋葬曲を。



「今、裏世界では武器密売ルートが混乱してて、あちこちの組織が表に次々と発覚し、壊滅されてるらしいぜ」

 ニュースを通してのクルツの報告に、千鳥は驚きを隠せない。彼一人が死んだだけで、世界の様相が大きく動いている。

 それほどに、ガウルンは手広くルートを持っていて、しかも重要な部分を請け負っていたということだ。たった一人の死がもたらすその影響力は、次々と晒されるニュースの膨大な数がそれを語っていた。

「ガウルンを倒したことが、予想以上の成果を上げているということですね」

 ミスリルはそれだけの男をようやく倒すことができたのだ。あの残虐非道で、千鳥にもいくつかトラウマを負わせた張本人。それがもういないと思うと、ほうっと安心感が沸いてくる。

「宗介も治療に入って三日。ガウルンもアマルガムに関与していた可能性が浮上して、そこからアマルガムにたどり着けるかもしれないと情報部もやっきになってるしな」

「椿さんが倒したアマルガムの遺体からも、情報を引き出せるかもしれないみたいですしね」

 情報部にとっては、今回の事件が数年の間でも最も収穫が大きいという。

 初めて、ミスリルがアマルガムに対して先手を打てるかもしれない。そんな期待感が基地内全体を覆っていた。

 しかし、その安堵は短いものだった。



 昼を過ぎた頃。千鳥が仮眠に入り、クルツが自室で仲間と談笑していたそのとき。

 突然ミスリル内にけたたましく警報が鳴り響いた。

 それは訓練でも故障でもなかった。

「どうしたの」

 急いで管制室に入ったテッサは、警告の原因を担当の管制員に問いただす。

「三名の侵入者です。空間制御装置より二ブロック内で、二名が銃を発砲してる模様。監視映像出します」

 中央のモニターに、その様子が映し出された。白い壁の廊下に、複数の影が動いてゆく。それを見て、テッサは自分の目を疑った。そこには数人が小型の銃を乱射するように暴れていた。しかしテッサの視線は、その群れの中央、唯一武装していない男に向けられていた。

 その男は銀色の髪に銀色の瞳。

 間違いなくレナード・テスタロッサ本人だった。

「どうして。どうして彼がここに?」

 秘密裏にしていたはずのこの場所をなんらかの方法で特定されてしまったのか。

 いや、それよりも、たとえ知ったとしてもどうやってここに入れたのか。地上とここは完全に分断されている。唯一来る方法は、ミスリルの持つ身分証だけで、しかも使用するときに本人かどうか照合される。

 たとえなんらかのアクシデントでカードを奪われたとしても、レナードには使えないはず。

 モニターの向こうで爆発音が上がった。白かった壁が灰色に朽ち、ひしゃげている。廊下に面した扉が今ので破壊され、その向こうに通じる部屋に数人がなだれこむ。

「戦闘員は?」

「地下訓練室で、模擬訓練中です」

 よりによって、そんなタイミングで襲撃を食らうなんて。

「すぐに出動を呼びかけて。手近にいる隊員は、可能な限りの対処を」

 指示通りの内容が基地内の放送で流れる。レナードの場所を告げると、各自が手元の武器を点検し、即座に防衛にまわっていく。

 モニターには、レナードの周囲の男たちが壁を意味なく殴りつけ、銃を所持してる者は前方にでたらめに発砲する。その異様な様は麻薬中毒者の末期症状を思わせた。だが、テッサにはなぜか彼らのその顔に見覚えがあるような気がした。

 彼らはレナードを護衛するかのように、レナードを中心に前後左右に配置され、レナードと同じ歩幅と速度で前方に進んでいく。つまり彼らを先になんとかしなければ、レナードに手出しできない状況だ。

 彼らを遠くから捉えている監視カメラの映像では、レナードの歩く先の廊下の影に、三人ほどの隊員が潜み、気配を殺して反撃の機を伺っているのを捉えていた。

 その存在にレナードたちは気づかず、ゆっくりと歩いてくる。

 十分な間合いまで詰めてきたところで、三人のうち二人が先に一気に廊下に飛び出して、レナードの前にいた取り巻きどもをタックルで押しのけた。そして控えていた残りの一人がレナードに銃口を向ける。

 ところが、引き金を引く前に、隊員の動きが止まった。単に足が止まったのではない。微細な動きもなく、表情も消え、人間が人形にすり替わったと錯覚させられるような静止だった。

 数秒すると、隊員の硬直が解けた。しかし彼の銃口はレナードにではなく、周りの取り巻きどもと同様に前方に向け、まるでレナードを守るかのように暴れ始めた。

「これは……」

 催眠術にやられている。隊員達は、催眠術師に対しては迂闊にその目を見ないよう言いつけていたが、油断でもしてしまっていたのか。

 そこで、ようやくテッサは気がつく。

 顔が凶悪に歪んでて気づけなかったが、レナード以外の取り巻きは、その誰もがミスリルの隊員たちだった。

 取り巻きを押しのけた二人が代わりにレナードに飛びかかろうとする。だがその二人も一瞬にして硬直し、数秒後には他の取り巻きと一緒になって基地内を暴れ始めた。

「隊員たちが……次々と操られてるの?」

 レナードをほんの一瞬見ただけで、彼らは操られてしまったというのか。ただレナードと面向かっただけで、味方から敵になってしまうのか。

「これが……レナードの力……」

 状況から見て、ここにはたった一人で乗り込んできたようだ。それなのに、誰一人レナードとやり合うこともかなわず、操り人形にされてしまっている。

 ここにどうやって侵入してきたのかも、これで説明がつく。

「基地の外の隊員を捕まえて、その人に空間転移装置を使わせたのね……」

 もはやどんなセキュリティでも、レナードの侵入を防ぐ方法はない。そこに人が関わる限り、レナードには意味を成さない。

「おいっ、どういうことだよこれはッ」

 管制室に入ってきたクルツが、モニターを見るなりテッサに問いてくる。

「まんまと侵入されてしまいました。隊員達も次々と操られてしまって……」

「どういうこったよ。奴らは催眠術に対抗する訓練してたんじゃねえのか?」

「あくまでも一般的な催眠術師に対抗できる訓練、です。それでも……世界最高の催眠術師であるレナードには、対抗のしようがないみたいです……」

「じゃあどうすんだよ。このままあの野郎の好きにさせんのか」

「戦闘員は、さらに上級の訓練を受けています。完全ではありませんが、おそらくは数秒くらいならレナードの催眠術にも抵抗できるでしょう。その数秒の間に、なんとか……」

「たった数秒かよ」

 こうしてる間にも、モニターの向こうでは次々と隊員がレナードに引きずり込まれ、彼を守る人数が増えていく。その中を突破して、完全に操られる前にレナードを撃破しなければならない。時間の経過とともに可能性が低くなってしまう。

「大体、なんであの野郎はこの時期にいきなり来やがったんだ。しかも一人でよ」

 ここ最近で、ミスリルで大きな変化があったことといえば、ガウルンを倒したことと、宗介の負傷。アマルガムそのものに対して、なにかを仕掛けたわけではない。

 だがここで引っかかった。今襲撃するのに有利な理由。

「……まさかあの野郎、動けなくなったソースケをこの機に狙ってきやがったんじゃ」

 アマルガムの情報力なら、ガウルンが倒された状況くらいは掴まれているだろう。ミスリル側の損害も大きかったことに。

 くそっ、っとクルツはテッサが止めにかかるより早く、管制室を飛び出した。



 千鳥かなめは、自室で仮眠に入ってたところだった。そこに、けたたましい警報。

 浅い眠りをたたき起こされてまだ思考がはっきりせず、放送の内容が頭に入っていかない。

「なんなの?」

 廊下に出て、辺りの様子を伺ってみる。そこには誰もいなかった。

 奥に進み、階段を上がる。そこでようやく隊員達の声が聞こえてきた。

 しかしその声は日常のそれではなく、悲鳴と咆哮。それを取り巻くのは銃声。

 千鳥は急いで駆け上がり、その廊下を覗き込んだ。なぜか廊下の一帯に粉塵が舞い上がっていた。奥側の壁がえぐれ、破片が飛び散り、粉となって空を舞う。

 その向こうでいくつか見知った顔の隊員たちが、護衛用の武器を乱射して、辺りを破壊していた。その彼らの目つきは異常で、まともに前を見ていない。彼らが進んだ後の壁は黒く煤け、黒煙が立ちこめている。廊下のスプリンクラーが起動していて、奥の方の床が水浸しになってしまっている。

 さっきまでとうってかわった光景に呆然としていると、クルツが急いで階段を下りてくるのが見えた。

「ウェーバーさん。どうしたんです?」

「なに呑気な声出してやがる。病室へ急ぐぞ、ソースケが危ねえっ」

「ソースケがっ?」

 そこだけはっきりと聞き取って、すぐに眠気を振り払い、頭を切り換えた。寝ている間に、なにかとんでもない事態が起きてしまったらしいことを理解し、クルツの後に続く。

 一番階下の奥にある、特別病室。致命的な負傷をした隊員が集中して養生できるよう用意された場所。

 そこから少し離れたところにあるカプセルに、宗介が首から下を収容させている。顔はカプセルから露出させ、簡易呼吸器を取り付けられていた。

 カプセルは円柱型で、中には人間の再生速度を速めるための液体で浸されている。それに浸かることで、肉体が驚異的な速度で回復する。ただしカプセルは床に完全に固定されているため、動くことはできない。

 そこを敵に狙われてしまっては、逃げることも抵抗もできずにやられてしまう。

 クルツと千鳥がそこにたどり着いたとき、カプセルにはなんの異常もなかった。宗介は今でも眠りについていている。時々うなされてるようだが、それこそ寝ている証拠であった。

「どうやら間に合ったみてえだな」

「あたし、さっき起きたばかりで状況が判らないんですけど。説明してください」

「レナードの野郎が、単独でここに侵入してきやがったんだ。しかも撃退しようとした隊員たちを操り、味方につけて暴れさせてやがる」

「レナード・テスタロッサが……?」

「千鳥はここで応援を呼んで、待機してろ」

「ウェーバーさんは?」

「オレもあの野郎には、ある国で因縁があってな。その決着をつけにいく」

「因縁……?」

 クルツは上の方を睨み、一言マリア、とつぶやいて、病室を出る。来た場所を戻り、そのままレナードを目指して階段を駆け上がっていった。

 千鳥はそれを見送ってから、病室に戻り、カプセル横にパイプ椅子を持ってきて、宗介の寝顔を見やった。

 相変わらず寝汗がひどい。今までも様子を見に来てみると、大抵うなされていて、こんな感じだ。

 上の喧騒がここにも届いてきて、その彼の目が、少しずつ開いていった。

「……千鳥か」

 身を起こそうとして、カプセルに固定されていたことを思い出す。首から下はずっとカプセルの中で、液体に身を浸している。

「また、うなされてましたね」

「…………」

 宗介は答えなかった。しかし、千鳥にはその理由が分かっている。彼が見る夢の内容は、ただ一つしかない。

 幼き頃から苦しめられている悪夢。自らの手で両親を殺めた再現。

 ミスリル最先端の医療カプセルをもってしても、身体は癒せても精神までは癒せない。

「何事だ?」

 開口一番、そう尋ねてきた。

 千鳥が自分に分かる限りの説明をする。その中でレナード・テスタロッサの名が出ると、目つきが変わった。相変わらず憎悪のこもったその深く淀んだ眼光に怯んでしまう。

 宗介はまた顔を起こし、レナードの元へ行こうとする。だが、身体はカプセルに固定されていて動けない。カプセルのロックを外せるのは担当医だけだ。その担当医は今、ここにはいない。

「畜生、あの野郎が近くにいるってのに……」

「でも、ここミスリル本拠地には専門の戦闘員がいるんですから、これでレナードも終わりですよ」

「…………」

 それでも、宗介は下唇を悔しそうに噛みしめていた。復讐の機がようやく訪れたというのに、動けない自分が歯がゆいのだろう。

「千鳥。このカプセルをなんとかして外してくれ」

「無理ですよ。それに、まだ完全に治った訳じゃないんですよ」

「動けるほどには回復してる。頼む、ここから出してくれ」

「そう言われても……」

 カプセルには何重ものロックが掛けられている。千鳥には外しようがない。

 宗介はそれでもなんとか脱出しようと自力でもがいてみせる。が、無駄だった。

 しばらくしてどうしようもないことを悟ると、宗介は観念して千鳥に向き直った。

「千鳥。奴の狙いはなんだ?」

「だから……さっきも言ったように、きっと動けないソースケを狙って……」

「…………」

 本当にそうだろうか。宗介は白い天井を眺め、思考を巡らせる。

 レナードにとって、一番の脅威はなんだ。一度も接触したことのない俺を、わざわざ時機を見て出向いてくるだろうか。

 違う。奴にとっての脅威は俺ではない。

 そもそも、なぜこの時機なのか。最近あったことといえば、ガウルンを倒したことぐらいだ。

 調査では、ガウルンとアマルガムに繋がりがあったらしいことは報告されている。

 あのガウルンなら、アマルガムでも相当の地位についていたことだろう。

 それを倒したのは、クルツ・ウェーバー。クルツの射撃能力が、ガウルンの戦闘能力を凌駕した。

 もし自分がレナードだったら、最も関心の高い人物は、俺などではなく、クルツ・ウェーバーだろう。

「……クルツはどうした?」

「ウェーバーさんなら、さっきレナードと決着をつけにいくと言って、行ってしまいました」

「まずい。すぐにあいつを呼び戻せ」

「え?」

「レナードの狙いは俺じゃない。最初からクルツ・ウェーバーが目的だったんだ」



「対象者はB1に踏み込んできました」

「第三ゲートも破壊されました。第四ゲート現在被爆中です」

 レナードの進行上のゲートは全て封鎖している。しかしそれも強引に突破されてしまっていた。

「B1第二会議室内、火災発生。スプリンクラー作動」

 管制室に次々と送られてくる報告に、テッサは指を噛む。

 レナードによって操られた隊員たちの破壊活動が、たちまち損害を広げていく。

 ゲートを閉じても、操られた隊員の中に、対応するカードキーで開けさせたり強引に破壊させている。

 最初の被害があった空間制御装置のある階は、通路の役目だけなので損害は酷くはない。

 しかし、たった今踏み込まれたB1階は、ミーティングに使われる会議室や資料室の部屋が並ぶ。そこさえも荒らされ、書類などに火が燃え移り、大惨事になってしまっていた。モニターは黒い煙でよく見えず、それがかえって深刻さを物語っていた。

「まずい。このままでは、ここに侵入されるのも時間の問題かも」

 特に重要な役目を負うこの管制室は、B4階にある。B3階は武器庫と保管庫。管制室より下は隊員達の居住区エリアで、その下に治療室がある。

 武器庫を襲われてしまっては大問題だが、それ以上に深刻なのはここ管制室だ。管制室には重要機密を含んだ全ての情報が集っている。ここから全てのゲートのロック制御、空調管理、通信を行う。そこを抑えられたら、ミスリルの機能はほとんど止められてしまう。

 ここに迫られる前に、早々に手を打たなければ。



 レナードはそのまま階段を下りて宗介のところに向かうと思っていたが、彼は逆に駆け上がって、その先の廊下を進み始めた。

 どうやら宗介の正確な居場所を把握していないらしい、とクルツは安堵した。

 クルツが彼の元にたどり着いたとき、すでに操られた取り巻きは、二十人程に増えていた。ただ操られてるだけの隊員相手では殺しに躊躇してしまい、容易に攻撃もできない。

 スナイパーであるクルツとしては、レナードと決着をつけるには、一対一が望ましかった。だがこの距離では、構えた途端にこっちの居所がバレてしまう。そうなれば、レナードと目線が合って、ただでさえ狙撃という集中してる状態では、あっさりと催眠術にやられてしまう。ある国での二の舞だけは避けたかった。

 この基地には、倉庫以外に狙撃に相応しいほどの長距離空間がない。仕方なく、クルツは普通の拳銃を装備していた。もちろんこの銃でも、クルツの射撃能力ならなんの問題もない。

「ただ、あの操られちまってる奴らが邪魔すぎるぜ……」

 レナードは操った隊員たちを完全に盾として扱っている。前後左右くまなく隊員を配置し、いずれからの方向の襲撃にも対応できるようにしている。

 ここにはクルツだけでなく、正常な隊員たちも物陰に隠れ、反撃の機を伺っていた。

 しかし彼らもクルツ同様に、ここまで取り巻きが増えると近づけず、距離を取って様子を見ているだけだ。

 いっそ、ここから人混みを縫うようにして、奴を狙うか? 

 だが、構えて『白い世界』に入るまでに数秒かかる。それまでに向こうに気づかれずに済むとは思えない。取り巻きどもは完全にレナードの言いなりで、敵が近づいたらすかさずレナードに報告している。取り巻きがレナードの目になっていて、死角がない。

 そのとき、後ろから肩を叩かれて、身構えた。振り向くと、よく見知った顔。戦闘員の連中だった。

「模擬訓練の最中にこんな事態になるとはな。遅れた」

 詫びてきたのは、戦闘員の隊長を務めるクルーゾー。その部下として数人の戦闘員。その中には同じ日本人の、椿一成も含まれている。

「他の狙撃手は?」

 クルツが一人なのを見て、そう尋ねてきた。

「みんなバラバラだ。お互い連絡取れない状況でな。操られてる中にもいるらしく、連絡網が潰れてる」

「そうか。まあ、お前が正常なのはなによりだ。戦力に数えさせてもらうぞ」

「おい、待てよ。悪いがオレは、あのレナード野郎と因縁があってよ。奴と一対一にさせてくれねえか」

「それならば丁度いい。我々の人数では、あの取り巻きを抑えるのが限界でな。お前がレナードをやってくれるなら、俺たちがその機会を作ってやる」

「クルーゾー……」

 戦闘員の数は十名にも満たない。あの操られた人数の半数以下だ。しかし、それでも彼らならば戦略しだいでレナードの分の人数は確保できたはずだ。

「お前にはあの黒い悪魔を撃ち落とした実績があるからな」

 ガウルンを倒した事は、ミスリル内でもかなり高い評価として扱われている。

 クルツはそういう評価にはこだわらないタチだが、今回だけはそれに甘えることにした。

「先に俺たちが飛び出して、奴らを無力化する。その隙にレナードの元へ急げ」

 こくんと頷いて了承すると、軽く胸を小突かれた。

「油断はするなよ。白い悪魔の催眠術は、俺たちでもヤバい」

「ああ。オレなら、奴を見なくても当ててみせるぜ」

 それは見栄ではなく、そう言えるだけの自信があった。

「……やっぱり、お前が適任だ。俺たちは急所を狙うために、敵の姿をどうしても目視する必要があるからな」

「任せろ。じゃあ、頼むぜ」

 クルーゾーが、指の形で他の戦闘員に合図を出す。彼らはお互い飛び出すのに必要な間合いを取って、様子を伺う。

 作戦としてはこうだ。ここからレナードまでの障害となっている取り巻きどもを、クルーゾーたち戦闘員が押しのける。操られてるとはいえ、日頃から訓練を受けている隊員だ。数秒やそこらでは難しい。

 しかし、戦闘員が全て取り巻きを抑えることができれば、レナードを守る者がいなくなる。あとはクルツがレナードと一対一になるだけだ。

 レナードの動きを見て、クルーゾーが指の形をまた変えた。それを合図に、戦闘員が一斉に飛び出す。

 取り巻きはそれに反応して襲いかかってきたが、近戦術では戦闘員の方が上だった。向こうの攻撃をかわし、掌低をたたき込む。壁に勢いよく叩きつけられ、ここで普通は気を失うはずだった。だが、催眠術で痛覚を麻痺させられた隊員は、怪我の状態にもかかわらず再び襲いかかってくる。

 そんな異常な耐久力を持つ取り巻きを、戦闘員一人が二人以上受け持って、抑えにかかる。

 取り巻きどもを壁側にまで押しのけて、レナードまでの道ができた。そこにクルツが飛び出して、レナードの元へと突っ走っていく。

 四方八方の盾が無くなったレナード・テスタロッサは、しかしこの事態に慌てることもなく、不敵に笑みを浮かべてひるがえし、先の階段を下りていく。またもB1の会議室や資料室の階に戻っていく。

「野郎、逃がすか」

 クルツも階段を駆け下りて、その先の廊下を進む。そこで右側の部屋の扉が閉まった。その先の部屋に、レナードが逃げ込んだようだ。

 部屋の扉前にきて、いったん立ち止まる。

「さて、どうするか」

 この部屋は個室だ。あまり使われない資料室で、床面積は小さい。棚という障害があるが、言い換えれば中の人は動きがその分制限される。

 扉越しに撃ち込んでやろうか。だが、この基地自体地下にあって、部屋も扉も地上より頑丈に作られている。中からの音漏れもなく、正確な位置がつかめない。様子がわからないようでは、下手には撃てない。

 仕方ない。部屋に踏み込んで、そこを決着の場とする。ここはよく使う資料室や会議室のエリア。地の利はクルツの方にある。

 拳銃を左胸前に構えつつドアノブを回し、中の様子を探る。レナードとうっかり視線を合わせてしまわないよう、ゆっくり、慎重に。

 視界の端にレナードの姿を捉えた。それ以上は視野に入れず、方向と位置を確認する。

 彼は大胆にも部屋の奥で、こっちを向いて突っ立っていた。ドアとは一定の距離があって、近戦闘より射撃の間合い。

「君とは一度会ってみたかったよ。クルツ・ウェーバー」

 レナードの言葉に、クルツはさっとレナードの方向に合わせて銃を構える。

「オレの名を知ってるたあ光栄だな。だがよ、生憎とこの部屋にソースケはいねえぜ」

「そうすけ? いや、ぼくが会いたかったのはクルツ・ウェーバー。君だよ」

 クルツは軽く動揺するが、それを目元だけで抑えた。狙いは相良ではなかった。それどころか狙いは自分だったとは。

「ほう。んで、会ってどうしてえんだ。オレに撃ち殺されたかったってか」

「ガウルンを撃ったのは君だと聞いたんでね」

「ああ。それがどうしたよ」

 目は合わせない。そんな会話誘導に引っかかって、目を合わせるなんて馬鹿なミスは犯さない。たとえ挑発だろうと、冷静に流すことが大事だ。

「ひいきなしで見ても、ガウルンの戦闘能力はずば抜けていた。その男を倒した、となると興味をそそられないわけがないだろう」

「そうかい。そしててめえもガウルンと同じようにやられるってことだな」

「そう先走らないでいただきたいね。ぼくは、君と交渉しにきたんだよ」

「交渉だと? おいおい、ミスリルに所属する者が、てめえら暗殺野郎と取引するわけねえだろ」

「そうかな? 君も暗殺という意味では同じだと思うけどね」

「どういうこった」

「君も狙撃で、犯罪者を射殺してるだろう。やられた側からすれば、相手の姿も見えずに殺される。同じ暗殺だと思うけどね」

「やられる側の立場が違う。てめえらは殺されて同然のクズ野郎だ」

「それは個人の概念の違いだね。まあ、それはいい。それよりも、君に報告しておきたいことがあってね」

「前置きが長えんだよ。お喋りしてえんなら地下バーにでも籠もってやがれ」

「さきほども言ったとおり、ぼくは君にとても興味を持ってね。そこでここに来る前に、日本に出向いてきたよ」

 最後の言葉に、ぴくりとクルツの指先がこわばった。

「…………」

「君の素性、生い立ち。知れば知るほど、とても興味深い。ぼくにとってそそられる対象だ」

 視界の隅で、レナードは手を演説調に大きく広げて表現していた。

「クルツ・ウェーバー。巡査で交番勤務をしていたときに、一人の少女と知り合った」

 どくん、と心臓がざわつく。この男から発する台詞に、いいようのない苛立ちを覚え始めた。

「名は、佐伯恵那。自身に降りかかった事件を機に、君との交流の数を増やしてたそうだね。しかし君は別れも告げずに警視庁に配属替えして去っていった」

 どこまで知ってやがるんだ、とレナードを直視して睨みそうになった。しかしすぐに自制して、目線を別の方向に固定する。

「しかし君が去った後、彼女は殺された」

「――え?」

 動揺が声色に出てしまった。思考が寸断し、彼女の懐かしい姿が一瞬だけ浮かんで、消えた。しかし目線だけはなんとかキープする。

「……おや、知らなかったのか」

 レナードは意外そうに、そこで言葉を止め、小さく笑い出す。

「つれないね。彼女は君に好意を少なからず抱いていたというのに」

「――っ」

「彼女の遺品に、君だけの写真と、想いのつづられた手紙……切手は貼られてなかったようだけどね。それだけで十分に彼女の気持ちをすくい取れる」

 レナードの口からだけは聞きたくなかった。よりにもよって、彼女の純粋な想いを、なぜこんな男の口から伝えられなければならないんだ。

「しかし、本題はこれからだ。これはこないだ君のことを調べて初めて知った事実だが……偶然というには少し表現が足りないかな」

 レナードは声を出さずに、低く笑っていた。その笑いの意図がつかめないだけに、苛立ちが増してくる。

「ぼくはその頃、日本に来日しててね。目的は翌日の音楽コンサートの出演だった」

「コンサート?」

「ぼくは少々ヴァイオリンをたしなんでいてね。そしてもう一つ目的があった」

 ぐっと拳銃を握る手に力を入れる。なにがあっても、動揺して目を合わせてしまったりしないように。

「実験さ。催眠術のね」

「…………」

「ぼくが暗殺の依頼かなにかで他国に訪れるときは、必ず一回は、どこかの誰かで試すことにしてるんだ。国が違えば、思想も習慣も違うからね。それによって、催眠術のかかり具合に差が出てくることもある」

 この男はなにがいいたいのか。どんどんと話が脱線していくような気がする。

「それは日本でも例外じゃない。そこで、コンサート会場から適度に離れたところで、その試す相手を捜していたんだけど。そこで、丁度いい獲物を見つけたんだ。見るからにストーカーと分かる男がね。ぼくはそいつを捕まえて、催眠術をかけてやった。己の欲望を肥大化させ、忠実に実行するように、とね」

「……まさか、てめえ」

「気づいたかい? その操られた男こそ、佐伯恵那を殺した犯人だよ」

「――!」

 がくりと膝をつきそうになるところを、なんとかこらえる。

 ――こいつは……。こいつは、どこまでオレと因縁を交えてやがるんだ。

 元をたどれば、佐伯恵那もレナード・テスタロッサに……。

「もちろん当時、君との繋がりなんてなにも知らなかった。ただ、目の前に丁度いいモルモットがいたから使っただけなんだよ。それでも運命というのは面白いね。それでさえ、運命の糸の先をたどれば君に繋がるんだから」

 ぎっと下唇を噛みしめる。血が垂れて、舌に鉄の味が伝ってきた。 

 もうこんな悪魔野郎の声をこれ以上聞いていたくない。

 合わせていた照準のまま、これで全てを終わらせようと引き金を引こうとした。引けば、もうこの悪魔の命はそこで潰えたはずだった。

 しかし……

「な、なんだ……?」

 引き金にかけた指に力が全く入らない。自分の手じゃなくなったみたいに、自分の意志が伝わらない。

 それだけではなかった。足が動かない。いや、身体そのものが動かない。まるで全身が石にでもされたみたいだった。

 催眠術にかかった者と同じ兆候がクルツにも現れていた。

「バカな。オレは一度もてめえと目を合わせてねえぞ」

 視界の端で捉えても、目を直線的に合わせた訳じゃない。ぼんやりとそこに人がいると認識した程度だ。それなら催眠術にかかるわけがない。それは訓練でしっかりと身体に染み込ませてある。

「……催眠術をかける方法は、目を通してだけじゃない」

 レナードは指先を口元に当てて、片目をつぶった。

「日本に訪れたとき、コンサートで実験をしたとさっき言ったね。その実験は『音』で掛ける催眠術だよ」

「音、だと」

 もう一度銃を構えようとしたが、腕が上がらず、照準そのものが合わせられない。

「そう。視覚ではなく、聴覚を通すんだ。たとえば音楽は、聴く者の感情を揺さぶるだろう。聴いていて哀しくなったり、楽しくなったりする音楽がある。感情を支配する点では同じことだ。聴覚も、視覚に劣らず影響を受けやすいからね」

 しかし、今レナードはヴァイオリンなど持っていない。音楽も流れていない。

 なにかを聴いたとすれば、それは。

「君はぼくの声を聴いた。ぼくと会話したその時点で、すでに催眠術をかけられてたんだよ」

 それでは、防ぎようがないではないか。

 レナードの銀色の瞳さえ見なければ、避けられるものだと思っていた。その先入観が裏目に出てしまった。

「もうすでに、君はチェックメイトなんだよ」

「う……」

 指が動かない。この悪魔を目の前にして、なんの手出しもできない。

 睨むことはできても、それ以上の行動を制限されている。

「ふふ、いい反応だね。しかし、まだ報告は残ってるんだよ」

 これ以上、なにがあるというのか。もうこれ以上聞いてはいけない気がする。さっさと拳銃の引き金を引いて、こいつを撃ち殺すべきだ。

 しかし、できなかった。身体が動かないのもあるが、もう一方で、なぜか聞いておかなければならない気がした。

「ぼくはね、もう一つ、ある場所に訪れたんだ。君によくゆかりのある場所だよ」

 どくん、とまた心臓が跳ねる。だめだ。やっぱり聞いてはいけない。あの忌まわしい口を撃ち抜くには、今しかーー。

「椎原奈津子を知ってるね」

「――!」

「クルツ・ウェーバー。君が警察官になるきっかけを作った少女。だろう?」

「おい。……椎原をどうしやがった」

 クルツの声が震えていた。恐怖ではなく、抑え切れぬ怒りからの震えだ。筋肉が硬直していて、顔のあちこちが痛む。

「おっと。ぼくは彼女に手を出してないよ」

 視界の端に写るレナードの口元が、そこで邪悪につり上がった。

「彼女の傍に老人がいたもんでね。無免許の医者、だったかな。彼女を殺したのはその老人だよ」

「て、てめえ。じじいに催眠術を……」

「ふふ。意識だけは残しておいたからね。老人は彼女の首を絞めて殺すと、催眠状態から解けた途端に泣きわめいて、今度は自分ののどにメスを突き刺したよ」

 操られていたとはいえ自分の行為に耐えきれず、正常に戻ったからこそ自殺したのだろう。それでさえも、おそらくそれもレナードの計算の内だったに違いない。

「……てめえよお。あのじじいが何年彼女の介護をしてたと思ってんだよ」

 レナードは関心のこもらない視線を向けてきた。興味なさそうに目を細める。

「……椎原はよ。やっと上半身を起こせるようになったんだよ。何年も何年もきっついリハビリを繰り返して、ようやく身体を起こせるようになったんだ。それだけですっげえ喜んでた。まだ歩くこともできねえけど、それだけでも喜んでたんだ」

 最近お見舞いに訪れたとき、彼女は自慢げにそれを披露していた。

 なにより彼女が喜んでいたのは、視界が広くなったことだった。一点の天井しか見つめれなかった彼女にとって、新しい世界が開けたようなものだったのだろう。

 じじいも、先の無い人生に、最後の生き甲斐を見つけたようでいくらか若返ったように生き生きして見えた。彼女がなにか出来るようになるたびに、孫のようにそれを喜んでいた。

 そんなささやかな二人の生活を、この男はあっけなく潰した。

「それを……ブッ殺してやるっ」

 ぐぐっと動かないはずの腕を上げる。位置の記憶を頼りに銃口をゆっくりとレナードの額に合わせた。

「これは驚いたな。ぼくの催眠術を……」

「くたばれっ」

 最後まで言わせずに、引き金を引いて終わらせる。

 そのはずだったのだが、指先だけが動かなかった。腕は動かせても、指先の硬直がまだ解けない。照準は合わせることができたというのに。

「無駄だよ。腕だけでも動かせるようになったのは凄いことだけど、生憎とぼくのかけた催眠術はもうひとつの暗示を込めていてね。そっちを念入りに掛けさせてもらった」

「なにしやがった……?」

「とても分かりやすい暗示さ。『君はぼくを攻撃できない』。シンプルだろう」

「なっ」

「シンプルゆえに、暗示は強力。もう君は、ぼくを狙い撃つことはできない。ぼくへの攻撃に繋がる行動は一切取れなくなったのさ」

「……そうかよっ」

 クルツは銃口をレナードの額からずらし、壁の一面に向けた。このまま発砲してもレナードには命中しない。

 だが、白い世界に入った今、それは跳弾の軌道になっていた。直接の軌道でレナードを狙えなくとも、これくらいの技術は駆使できる。

 しかし。銃口はレナードに向けられていないというのに、硬直の解けた指はそれでも引き金を引けなかった。

「無駄だよ。跳弾でも考えたんだろうけど。そうして狙おうとすること自体、ぼくへの攻撃に繋がるからね。どんな策だろうと、結果的にぼくにダメージを与えることなら、その行動は取れない」

 殺す目的を持った軌道での照準では、引き金を引けない。そうインプットされてしまったのだ。

 たとえばレナードの真上にシャンデリアがあったとして、それを落として殺そうとしても、シャンデリアは撃てない。それがレナードへの攻撃に繋がると、発砲者のクルツ自身が分かっているからだ。

 これでは完全に手出しができない。まさに完璧な防御策だった。

「ち、ちくしょう……」

「そろそろ諦めがついたかい? クルツ・ウェーバー君」

「……いやいや」

 またも銃口を別の方向に向ける。それはさっきの向きではない。そして当然、レナードにも向いていない。

「オレはよ。諦めが悪ぃんだ」

 クルツは引き金を引いた。引くことができた。

 その銃弾は壁にぶつかり、甲高い音を立てて跳ね返り、横隅にあった棚に命中した。

「……?」

 それからさらになにか起こるかと思われたが、もう変化はなかった。

「まだまだぁっ」

 ガァンガァンと二発続けざまに放つ。一発は跳弾にならずに天井にめりこんだ。もう一発は二回ほど跳弾し、レナードの真横にある壁に小さな穴を空けた。

「ヤケでも起こしたのかな」

「オレはよ、跳弾の軌道を読めるんだ。どういう風に跳んで、どこに当たるのか。寸分の狂いもなくな」

「それはそれは。さすがトップのスナイパーなだけあるね。……それで?」

「お前を意識したら撃てねえらしいからな。撃つのに必要な情報をたった一つに絞った」

 親指を立てて、それを自分に向ける。

「オレに当たりさえしなければいい。あとは滅茶苦茶にブッ放してやりゃあ、いつかはてめえに当たるだろっ。まだ弾は残ってるぜぇっ!」

 ガァンガァンガァンと弾が尽きるまで、残り全てを撃ち出した。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。少し意味は違うが、そしてスナイパーとしてはスマートではないが、クルツはそれを実行してみせた。

 ここはあまり足場の無い部屋。クルツという安全地帯以外では、命中するはずだった。

 しかし、レナードは無傷だった。縦横無尽に飛び交う銃弾に、一発も当たらなかった。

「え……」

 レナードに運があったわけではない。足場の少ない場所で、これだけ銃弾が飛び交って、かすりもしないというのはおかしい。

「クルツ・ウェーバー。君の狙いは悪くなかったよ。ここで拍手を送りたいくらいだ。でもね、君はまだ僕の催眠術の力をあなどっていたね」

「んだと……?」

「君はさっき、自分にさえ当たらなければそれでいい。あとはおかまいなしにブッ放す。そう言っていたね。だが人の意識というのはそうそう完璧に使い分けれない。無意識のつもりでも、僕に当たる軌道を感じ取ってその軌道を避けるようにしてるんだよ。君自身でね」

「そんなはずはねえ。オレは他の軌道なんてなんにも意識なんぞして……」

「自分の感覚なんてそんなもんだよ。自分で自分を完璧にコントロールするなんて、機械みたいな人間はいやしない」

「ぐっ。こんな……」

「そう悲観することはない。最初に言ったはずだよ。ぼくは交渉に来たとね」

 攻撃方法を全て奪われたクルツに、なんの交渉があるというのか。

「ぼくの部下にならないかい、クルツ・ウェーバー」

「……まさか、それ本気で訊いてやがんのか? オレがそっちにつく可能性が少しでもあると思ってやがんのか」

「実際に訊いてみないと、人の心ってのは分からないものだからね」

「だったらはっきりさせてやるよ。クソ食らえだ」

「それは残念だ」

 しかし、全然残念そうな素振りを見せず、肩を軽くすくめてみせるだけ。

「大体、なぜわざわざそんなことを訊きやがる。てめえなら相手の意志に関係なく、思い通りにできるんだろうが」

「たしかにできるよ。でもね、相手の意志が催眠術を受け入れるかどうかというのは重要なことでね」

「そうかい。なんにしろそいつはご愁傷様だ。オレは自分からてめえの言いなりになる気はさらさらねえよ」

「まあ、それならそれでいいよ。意志を残したまま操り、ぼくの部下にさせるのもね。そうして苦悩する様も楽しめるから」

「クズだけでなく、サド野郎だなてめえは」

「君はなかなか使えると思うよ。なにせあのガウルンを倒した、世界最高のスナイパーだからね。君でミスリルを全滅させるのも悪くない」

「なっ」

「さっき宗介とか言ってたね。個人名ということは、思い入れのある人物かな。そいつと戦わせるのも一興になりそうだ」

 どくんと心臓が嫌な鼓動で波打つ。レナードならば、そうさせるのも不可能ではない。実際、何人かの隊員が操られ、味方同士で衝突させられている。

 オレの手で、仲間であり今では家族同然のミスリル隊員たちを全滅させる。

「冗談じゃねえよ」

 すっと、銃口の位置をさらにずらす。そしてその先にあるものは――

「無駄だよ。どれだけぼくから離そうが、その軌道の先がぼくに繋がるなら、引き金は引けない」

 レナードはよほど催眠術に自信を持ってるらしく、怯えを少しも出さずに直立不動でいる。

「ひとつだけ……狙えるモノはあるぜ」

 クルツがひとつの方向に狙いを定めたところで、引き金を引いてみせた。銃口が火を噴き、弾丸が壁に当たる。角度と金属部分に当たったことで弾丸はさらに軌道を変えていく。

 ようやく放たれた銃弾は、レナードではなく、跳ね返った先のクルツの心臓を真っ直ぐに貫いた。

「――!」

 クルツの一発は、自分自身を仕留めてみせた。

「へへ……。なにもかもてめえの思い通りになってたまるかよ」

 心臓への一撃。

 膝をついた状態で、クルツはしてやったりの笑みを浮かべてみせる。それからずしゃりと前のめりに倒れた。腹の下の血だまりがびちゃっと跳ねる。

 意識が薄れ、視界とともに暗闇の中に放り込まれた。

 広くて、なにもない暗闇。その遠い奥の方で、うっすら一点だけ光を放っていた。そこに見知った人達の顔が浮かんでは消えていく。忘れたはずの家族の顔。数少ない友達の顔。仕事仲間の顔。それが次々とフィルムの再現のように繰り返されていく。

 そして最後に椎原奈津子の顔が浮かんだ。

 クルツはそれに向けて、声を絞り出そうとした。

 詫びたかった。どこまでも自分のせいで巻き込んでしまったことを。そしてもう一つの想いの言葉を。

 しかし、声を出そうとする前に、暗闇が覆いかぶさってくる。目の前のその顔はゆっくりと微笑んで、それも消えていった。



 クルツの身体が小さな痙攣を起こしていたが、それもしなくなった。一目で分かるほど芸術的な心臓への一発。完全に死亡したことは、確認するまでもなかった。

 それを見下ろして、レナードはため息をつく。

「まいったね。いくらぼくでも、死体は操れない」

 もう少しで思い通りにできると思ったのに、自害されるとは予想外だった。

「まあいい。ガウルンを倒した君に敬意を表して、これ以上無下なことはしないでおくよ」

 レナードはそのままひるがえし、そこを離れていく。

 そんな彼を止めることは、最後まで誰にもできなかった。




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